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離婚率が高くなっているのは発達か退化か? [変化]

 離婚率が高くなっている。文化が発達すればするほど、高くなる傾向にあるようである。この離婚の増加は、果たして人間が動物として発達していることの裏づけなのか、それとも退化しているのか。
 結論を先に言うと、私はこれは人間力の退化の一つだと考えている。そもそも発達とか退化とは何を元にしているのだろうか。進化の過程で馬は中指一本がだけが発達し、その他は退化していった。特定の目的のために利便性、優位性を増すことを発達と言うのかもしれない。そして、使わなくなってしまい、もともとの働きをさせることが出来なくなることを退化と言うのだろう。岩波の国語辞典によれば「退化②生物体のある器官が不用になったため、働きがにぶり小さくなり、またはなくなること」である。
 人間は、文明の発達によって、文明の利器を作り出してきた。その過程で、人間が動物として生きてきた時に必要であった能力を捨ててきた。それを退化と呼ぶことができるのではないか。衣服を着ることによって暖を取るので、長い体毛は不用になった。無毛の動物も若干いるのが、これは例外であると思われる。本来は哺乳類は夜行性動物であった、昼間は爬虫類のものであった、と読み始めたばかりのリチャード・ドーキンスの『祖先たちの物語』に書かれている。夜行性動物としては、猫がそうであると中学校の時に習った。哺乳類全般としては夜に於ける視力はとても好かったはずなのであるが、進化の過程で昼に活動する昼行性動物と、夜に活動する夜行性動物とに分かれたのだろう。
 人間の退化の例を、思いつくままに挙げると、盲腸がある。直立歩行をすることによって痔を煩う個体が増えた。固いものを噛まなくなったために、下顎が小さくなり、歯列が乱れるようになったり、親知らずが生えてこなくなったりしている。本来人間は多くの能力を持っているが、それらを取捨選択してゆくうちに発達したものと退化したものに分かれたのであろう。オリンピック選手の能力を見れば、それはよく分かる。今すぐに誰にでもできることではないが、一つの種としてその能力だけを鍛え上げてゆけば、人間がどこまで出来るかが推測、想像できる。重量挙げ選手になるためにはそれなりの筋肉の鍛え方がある。同様に長距離走者になるためには、付いてはならない不要な筋肉もありそうだ。そして、鉄腕アトムではあるまいし、あらゆる競技で優勝することはできない。
 「文明人」と「未開人」を比較すると、いくつもの動物的能力が退化していることに気づく。視力。「文明人」は文字を読み、映画やテレビを見るので、視力が衰えている。聴力も、騒音に侵されているので、小さな音を聞き取れない人間も増えている。特にヘッドホンで大音量で聞いている人間は、年をとってからが心配されている。
 そして、反対に人間が他の動物の能力とは違う部分で大きく発達させてきたものがある。それは脳である。脳の中には、過去の蓄積があり、それは増え続け、発展し続けている。
 離婚を、この進化・発達・退化の観点から考えると、そもそもなぜ結婚をするのかと言うことを考えなければならない。なんとなれば、動物たちは結婚などしないからである。子孫を残す為に、少しでも有利な条件の相手を見つけ、生殖するだけである。そして、盛りが付いた時だけ、新しい雌を、雄を求めればよいのである。猫だって、鳥だって、同じ相手と一緒に生活するわけではない。その必要もない。近親結婚を避けるためには、同居せず、離れれば離れるだけ、その危険性をすくなくすることができる。オイデュプス王のように、自分の母を妻としてしまうことは本能的に悪とされているのであろうと思われる。では、なぜ、動物である人間は夫婦になるのか。
 理性を持った生き物として存在したいと考える人間であれば、どうあるべきかと言う観点から答えを出したい。人間は人間社会、文化と言う作り上げられた一定の秩序の中で生きている。最小単位は個である。個の上は家族。共時的には家族は親戚と結びつき、通時的には祖先や子孫に結びつく。この社会を維持したいのだったら、その個々の部品である人間関係は強固であるほど、その社会は安定する。家の柱や梁や根太がしっかりしていなければ家が建たない、立っていられないのと同じ理屈である。そしてこの個々の部品をそのままで維持する為には、負荷が掛かる。北風が吹けば、北側から圧力が掛かり、柱は軋むだろう。しかし、一つの家であれば、その圧力を他の部材が、一部吸収してくれる。そして、人間関係も同様なのだと思う。嫌なことがあれば、関係者で分かち合う。好いことがあっても、それを分かち合う。それが共存共栄の基本である。
 理性を持っていない動物はどのように、不快時に振舞うだろうか。単に、その不快なものから逃避する、より快感を与えてくれるものの方へ逃避するであろう。ここが重要な点である。不快なものに出会ったとき、不快な目にあった時、そのものを如何に克服するか、それを学ぶこと、経験することが何よりも人間の発展にとって必要な要素である。それを避けること、逃げることは弱い部分を弱いままに放置して、結局は退化させてしまうことになる、と思うのである。
 ニートやフリーターの問題が話題になると、彼らは自己責任の下に行動すべきである、と言う主張がしばしばなされる。この問題は今回扱わないが、私見では、ニートやフリーターを作り出したのは近代文明だと思っている。単に個人の問題として等閑視していてよい問題ではない。近代文明が彼らを作り出しているのである、酸性雨や光化学スモッグなどの公害同様に、文化が発達する際の副産物なのだと考えている。この論点はさておき、ニートやフリーターと言う存在は、発展ではなく退化であると考えている。なぜならば、社会の秩序を一つの理想とするならば、社会のためにならない人間の数は少ない方がよいからである。それが増えているならば、人間社会は労働場所の提供能力が退化しているのである。
 そして、やっと結論である。離婚の増加だが、仮令、夫婦相互の了解の下に協議離婚し子供を育てたとしても、それは理想的な社会構造からみれば、家族間と言う社会部品の紐帯が綻んでいることになり、退化傾向の現れに他ならない。これは都会の子供達の運動能力の低下同様、退化の現れである。必要が無い、使いたくない、我慢したくないなどの理由で耐えることを止めてしまうと、その能力は発達しなくなる。楽器の練習など、その最たるものである。繰り返される夫婦喧嘩を乗り越えて添い遂げる夫婦の力、それはお互いの人間性の尊重であり、人格の許容である。
 但し書きが必要なので、補足するが、最初から愛のない結婚は別である。政略結婚、結婚詐欺(近所の男性が被害者になり、土地を慰謝料の代わりとして奪われた)、あるいは性的被害にあった場合など、考慮すべき、憂うべき例外は沢山ある。
 SSCN0171.JPG(大学生の頃、Newsweekの写真を元にクレヨンで描いた絵) 


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個性的であろうとすることと没個性 その2 [変化]

 個性ということを考えていたら、個性とは何かについて定義をしていないことに気付く。今更ながら、岩波国語辞典と岩波小事典『哲学』を引用してみる。「個性:①他の人とちがった、その人特有の性質・性格。個人の特性。②個体に特有の性質。」(国語辞典)「個体について、そのありかたが特殊・独自であることの性質をいう。中世の唯名論のあとをうけるルネサンス自然哲学、またライプニッツのモナド論でのこれの強調は地上的・感覚的事物の思想的是認から科学的把握への道をひらき、ロックでは時間・空間が<個性の原理>とされた。個性の主張は普遍性への背反をふくむが、背かれるのは老朽した普遍性であって、じつはそこに同時に新しい普遍性開発の努力があった。このことは近代形成期の政治・教育・宗教諸思想(マキャベリ、ルター、ルソー)の(人間)個性の主張にもみられる。19世紀半ばからは市民社会の老朽現象(人間の類型化、マス化)にともなう個性の喪失が問題にされる。」(小事典「哲学」1976年第一版19刷)
 そして、思い当たったのは、個性も単に個体だけに使われるものではないと言うことである。つまり、集団にも個性がある。小さい集団では、まず家族、一族、そして村、都市、更に地方、国、文化圏へと広がってゆく。家族には遺伝子を共有する個体の小さな集団が出来、家族としての特性が形成される。それは別の言葉では文化とも呼ぶことができる。個人の個性とは、個人に於ける特有の文化である、とも言える。
 次に考えなければならないのは、個性にも強弱があると言うことである。私はこれを振り子の振幅で喩えることにする。振幅の大きい個性が、より個性的、灰汁が強い、我が強いなどと評される。鼻持ちのならない人間、誰もが崇拝して信者になってしまうほどのカリスマ性を持った人間もいれば、他方、謙虚さゆえ、或いは自信のなさゆえ、その存在があまり目に付かない人間もいる。地方、国の文化に置いてもこれはあてはまる。
 先々週に「生物史から、自然の摂理を読み解く」ブログ記事で面白いものがあった。MASAMUNEさんと言う方が書いている。リツォラッティらの発見したミラー・ニューロンと模倣との関係について言及した後、次のように締めくくっている。
 <現代では「ヒトの真似はイヤだ!」なんていう方もいますが、それは間違い!
  ヒトの進化の過程から考えてみると、真似をいっぱいして、充足+進化していくのが本来のヒトの生き方だと言えますね>
 
*ちなみに、wikipediaのミラー・ニューロンの説明のなかで、ミラー・ニューロンの不全と自閉症との関連性の可能性について言及されている。自閉症の子供は、他者を模倣することができない。認識⇒理解⇒模倣という過程がないようである。
 
 個性を語る上で、法隆寺の棟梁、西岡常一さんの話は是非書いておきたい。「『木は生育の方位のままに使え』と言うのがあります。山の南側の木は細いが強い、北側の木は太いけれども柔らかい、陰で育った木は弱いというように、生育の場所によて木にも性質があるんですな。山で木を見ながら、これはこういう木やからあそこに使おう、これは右に捻じれているから左捻じれのあの木と組み合わせたらいい、というようなことを見わけるんですな。これは棟梁の大事な仕事でした。・・・・製材の技術は大変に進歩しています。捻じれた木でもまっすぐに挽いてしまうことができます。・・・木の癖を隠して製材してしまいますから、見わけるのによっぽど力が必要ですわ。」(『木のいのち木のこころ』新潮文庫pp20-21)「(弟子は)自分で考えて習得していくんです。それを生徒がやっと考え出したときに『何やっとるねん、早ようせい。愚図やな』、『そんなときはこうや』、こういって先生や親は考える芽を摘み取ってしまうんですな。」(同上p75)「人はみんな個性があって、それぞれ違いますのや。・・・教育といいましたら、本当は個性を伸ばしてやることと違いますか。・・・」(p83)
 そしてローレンツからの引用。「青年が伝統に疑いを抱くのは当然のことなのです。・・・けれど、一つの文化というものは、新しい情報の獲得と知識の保存という二つのメカニズムの平衡の上に成り立っています。この二つはともに必要です。伝統は知識を保存するメカニズムなのです。」(『文明化した人間の八つの大罪』p126)
 
 私のとりあえず辿りついた結論はこうである。生物はそもそも細胞分裂して、その個体を増やしてきたことを考えれば、同一種のものは他の種からみれば、限りなく個性がなく同じように一見みえる。しかしながら、いかなる、たった一つの個体でも、その個体の発生した遺伝的環境、生活環境によって、個性を持たずにいることはできない。これは広義の個性である。しかしながら、この個性には振幅があり、平均値からすると大きく逸脱しているものがあり、それをより狭義の個性と呼ぶ。この個性には好い物も好ましくないものもある。
 「個性を重視する教育」「個性を重視する社会」自体は悪いことではない。大いに推奨すべきである。しかし、上記の狭義の個性のない者に、それを期待したり養成しようとすることは誤りだと思う。狭義の個性は、なるべくしてなるのである。放置しておいても、自然発生するものなのである。自然発生しないものはその個性がない、ということである。政治的、経済的、心理的な抑圧のために、自然発生している個性が開花できない例は、枚挙に暇がないことは分かっているが。貧困ゆえに、或いは戦争ゆえに、本来は花開くべき才能が、インドやアフリカやアンデスの寒村で、一度も機会を与えられずに死んでしまっているだろう。
 
 <個性の主張は普遍性への背反をふくむが、背かれるのは老朽した普遍性であって、じつはそこに同時に新しい普遍性開発の努力があった。>上記の小事典に書かれていることについて少し考えを述べてみたい。これは芸術を例に考えれば納得のゆくことある。バロック音楽があり、モーツアルトが登場し、新たな音楽を書き始める。今までの音楽の作り上げてきた普遍性、論理とは異なる、新たな作曲方法で書き始める。続いてベートーベンが登場し、同じく過去の音楽を取り入れつつ、一部破壊してゆく。これは新たな偉大な個性がいかにして新たな普遍性を開発してゆくかの例である。モーツアルトもベートーベンも、否、芸術家は誰も普遍性などということを考えて創作するのではない。自分の好きないように書いているだけである。学問もそうだと思う。ダーウィンだって、自分の好きなことをやっていて、偉大な進化論に行き着いたのである。
 個性とはそもそも内発的なものであるから、外から引き出すことはできないのだと思う。助長という言葉のように、苗の生育を早めようとして穂先を引っ張り出したら、苗は枯れてしまうことになる。ヒントや助言を与えることはできても、育つのは個性を持った個体である。他者のために食べることも眠ることもできないのと同じ理屈である。
 そして、ヒントや助言を与えるのが教育である、知識の基礎を作り上げるのも勿論重要な教育の要素であるが。狭義にしろ広義にしろ、個性は尊重されなければならない。しかし、それは既に述べたように外から手を貸して作られる物ではない。他者によって作られた時点で、個性が消滅、消えてしまう。
 恐ろしいことは、いつの間にか進入している、グローバリズムによって均一化された文化が、地域独特の個性的な文化を飲み込んで、いつしか破壊してしまうことである。既に、日本中似たような景色が広がってしまっている。商店街を撮った写真だけで、その都市を当てることは難しい。外来魚たちが日本の湖沼や河川の生態系を狂わせているように、均一化が進行している。「青年が伝統に疑問を抱くことは当然のことなのです。」(K.L.)自分達の文化・伝統に疑問を抱くのは、新たな個性を持った青年たちの特徴である。しかし、それが商業主義によって冒された広告によって左右されるものであったりした場合には、問題は深刻である。「伝統は知識を保存するメカニズム」(K.L.)だからであり、伝統という依拠すべきものがなければ、新たなる普遍性は画餅にすぎなくなってしまうからである。

個性的であろうとすることと没個性 [変化]

  K.ローレンツ『文明化した人間の八つの大罪』を図書館に予約して借りてきたのは先週の火曜日。一度通読し、深い感銘を受ける。そして、ローレンツが30年以上も前にこの著書で警告していることが、現在世界中で進行中であることに驚く。その先見性。天才は足元の問題を着実に分析する能力を持っているのだ。当時からその問題の原因は顕在化していたのだったが、米ソが冷戦状態にあり、世界は全世界に共通して進行しつつある、根源的な問題に眼を向けなかったし、ローレンツの主張に謙虚に耳を傾け、根本原因をなくそうとする人間が極端に少なかったのだと思う。二度目は、ノートに書き抜きをしながら読むことにする。
 さて、感動が大きかった為、まず書かずにはいられなかったローレンツのことは一旦置き、昨日電車の中で思いついたことを書いておきたい。それは個性を重視する近年の教育、社会風潮についてである。皆が個性的であるべきであると考えること自体が、没個性的な発想になっている。人間は誰にでも、どこかの部分で誰かより優れた能力があり、それは優れた伯楽がいれば能力を引き出してくれる筈であり、その能力を信じていきてゆくことが幸福への一つの道である、と言うような考えがないだろうか。戦いに破れるのは、その持てる能力を最大限に引き出さなかったから、引き出すことを教えてくれる先生がいなかったから。本当だろうか?
 実際には、殆どの個体は団栗の背比べである。それが自然である。団栗同士に無理に個性を求めることが、団栗を団栗でなくしてしまい、余計な精神的な負担を負わせることになるのではないか。只の団栗には只の団栗でいる権利がある。それが正しい生き方なのではないか。
 先月、「生物史から、自然の摂理を読み解く」と言うブログを読んでいたら、<そもそもタンパク質には群れる性質があるということが、生物が群れることの土台になっているかも知れません。>(fkmildさんの08-07-23の記事)と言う文に出会った。動物が群れる原因はタンパク質の性質と同じかもしれないと言う話は、新鮮な驚きであった。群れることのによって、二つの利益が齎される。一つは群れの一部になり、没個性化してその他大勢となり、敵から身を守ることができる。二つ目は、異性の集団に効率よく巡り合うことができる。鰯などの魚は集団で泳ぐ。ヌーやトナカイなども同じで、大集団で移動する。群れは命を守る。そして繁殖のためにも便利である。日本にも五十年前頃まで、男子だけ或いは少女達だけの為の組織があった。その集団のあるところへ行けは、結婚相手をみつけられる可能性は大きくなり、子孫を残せる可能性も大きくなる。蚊柱も同じ理屈で、そこへ行けは同類に出会う確率が高くなり、繁殖することもできる。群れは種が子孫を残す為に必要不可欠の行動である。たんぱく質も群れれば、化学反応を起しやすくなるだろう。
 群れによって一定以上の個体数を残すことができるようになると、個が生まれる。個を意識すると、個は自己を他者と区別し、自分を傑出した存在に見せようとする。そして、個体は出来るだけ群れから離れるようになる。尤も、群れから離れると言っても、それは群れの持つ引力の圏内に過ぎない。群れも個体もお互いが、必要に応じて一体化できる範囲内でのことである。だから無人島に一人生活して、個性を主張するのは戯画にすぎない。個性を主張するための前提条件は、自分と似たような能力をもった他者が沢山いること、即ち群れがあることである、その個性的能力も自分と比べて劣っていること。
 (つづく)
 

残酷さについての考察もどき [変化]

 「私は母音の色を発明した!-Aは黒、Eは白、Iは赤、Oは青、Uは緑。私は子音それぞれの形態と運動を調整した。」 『錯乱Ⅱ』 ことばの錬金術の中で、A.ランボーはこのように宣言した。だから私も宣言してやろう。「残酷さ」の公式を作り出したのだと。
 私は春分さんの「長虫(そのそれは長く、しかし毒はもたない)」を見てしまった時、考えた。残酷さとはなんなのかと。青大将がカエルを飲み込む様を、つい、先に進んで全て見てしまった後に。たまたま目に留まって図書館から借りてきた『自我の起原』(真木悠介著-岩波書店)の中にある式が、私をして残酷さについての公式を考えしめたのである。それはこのようにまとめられている。
 「ハミルトンは更にこの結果を一般化して、動物個体の「利他」行動の条件として
  br>c 従って r>c/b と言う式を導いている。rは個体間の血縁度で1から0までの値をとる。cは行為者の犠牲(cost)の大きさ、bは受益者の受ける利益(benefit)の大きさである。・・・」(p17)

 さて、残酷とはどのように国語辞典では定義されているだろう。「人や動物に苦しみを与えて平気なこと。むごたらしいこと。」惨たらしいは惨いと同義であり、惨いとは「悲惨だ、いたましい、残酷だ、無慈悲だ」(岩波書店国語辞典第2版)。むごらし、と言う言葉が江戸時代には使われていたようである。意味は「むごい状態である、哀れである、かわいそうである、むごたらしい」(三省堂『明解古語辞典新版』)
 残酷であること(cruelty)を考えてみると、それはいくつかの要素から構成されていることが分かる。恐怖(fear)、経験による知識(experience)あるいは共感(sympathy)、血腥さ(bloodiness)、痛み(pain)、時間(time)。そして私はランボーよろしく魔法の定数である人間性(humanity)を用意した。残酷さと言う概念も人間が作り出したものだからである。もし人間性が神の判断、神意(Providence)と等しければ、この公式は成り立たない。このような破壊要素も準備した。
 まず、恐怖は残酷さを印象付ける上では重要な要素である。例えば、蛇に睨まれた蛙、と言うが、蛙は恐怖に凍りつく。本当だろうか。私は子供の頃、小川で水遊びをしていて恐ろしい目にあった。突然蛙が土手から飛び降りてきたので驚いてそちらを見ると、70センチほどの長さのヤマカガシが猛烈な勢いで追いかけて来ていたのだった。弟と私は蛙の味方をし、大きな声を上げたのだったが、蛇はバツが悪そうに、すごすごと草むらに消えて行った。恐怖を感じないものがその捕食者に出会っても、なんの感情もなく、よって、残酷には感じない。例えば、植物は恐怖の表情を表さないので、食べる時残酷さを感じない。
 経験による知識とは、共感と殆ど同義であるが、共感するためには自身の経験がなければならない。地震や洪水の被災者は、他の地域の被災者の気持ちが分かる。経験した人々でなければ決して知ることのできない共通項があるためである。喧嘩で相手に酷く傷つけられたことのある人間は、傷つけられる痛みがよく分かる。アウシュビッツのガス室へ送られる直前に解放された人は、ガス室で亡くなった人の恐怖や悲しみが分かるだろう。なんとなれば、次は自分の体験になる筈だったから、単なる他者の経験ではないからだ。
 血腥さ。これは残酷さの中でも、視覚的な要素である。残酷さの中でも、人間が行う拷問などでは、血腥さがないものもある。青い血の生き物もいるが、一般的には赤い血が残酷さ、悲惨さに付き物である。反対に、血がでないと残酷さの程度が和らぐこともある。口の周りを血だらけにしたライオンが、シマウマにかぶりついている姿。一方、一口でオキアミを掬い取るナガス鯨。どちらも食事の姿であるが、血腥さと言う点からは、ライオンの方が残酷に見える。
 痛みが感じられない場合、表情の変化も、形態の変化も、体の変化も起きない。痛みは往々にして我々人間の普段感ずることができるために、最も共感でき、残酷さの程度も大きくなる。血腥さも、傷⇒痛み或いは出血⇒出血或いは痛み、と言う流れの中で感得される。
 時間と言う要素も大きい。春分さんのブログにも書かれていたが、蛙が虫を呑み込むのは一瞬なので、残酷さを感じない。この指摘は的確だと思う。上記のナガス鯨なども、瞬間的な捕食のために、殆ど残酷さを感じない。この時間と言う要素は残酷さを隠蔽してしまう。例えば、戦争でも、近年では破壊力の凄まじい兵器を使用し一瞬で人間が消滅してしまうため、その瞬間残酷であると感じる暇がない。時間と言う要素と同様に考えておかなければならないのは、残酷さを感じ取る感覚である。それは五感で、見る、聴く、味わう、嗅ぐ、触る。それらが感じられなければ、残酷さそのものが認識されない。この5つの中で、味わうと言うのが、残酷さの具体例を思いつかない。興味深いのは、この五感はどれも「変化」に対応していることである。時間の経過がなければ変化は起こらない。時間の経過が零に近いと、変化が感じられず、残酷さも感知されない、されづらい。見る、について言えば、残酷さを見ることのできる状態であることが必要条件である。瞬時に消滅あるいは目の前から消えてしまう場合、残酷さは感じない。聴く。恐怖のために叫び声、或いは痛みのために絶叫する、その音が聞こえなければ残酷さの度合いは低くなるかも知れない。以下は省略する。
 
 さて、これらの要素を式にしてみる。
 C=(f+b+p)×t×s×(h-1)

 C:残酷さ  f:恐れ、恐怖 b: 血腥さ t:時間  s:共感、同情、体験の共有 h:人間性、慈愛   Pr:神意
 慈悲深い人間であればh(人間性、慈悲)が大きくなり、残酷さの程度も大きく感得される。一方、残忍な無慈悲な人間は値が負になることもあり、残酷さを感じないことになる。
 ちなみにh=Pr(=1)である場合には、この公式は成り立たなくなる。
 

松井冬子の絵画について [変化]

 先週、NHKのETV特集で放送された松井冬子紹介番組を私は興味深く観ていた。lapisさんもご指摘のように、テレビの影響は絶大であると思う。仮令彼女の作品が気に入らない人々でも、彼女の美貌には目を惹かれ、あの全体的に大作りな、マリア・カラスを思い出させる造作が脳裏に焼きついたのではないだろうか。制作者の演出意図が見えかくれしていた。つまり、NHKのカメラマンが、まるであたかも美人女優が演じる女流画家の生活の一齣を撮る様に、化粧、髪型、衣装の乱れ、照明によって生じる陰など、彼女の美貌だけが引き立つように細心の注意をしていたことが見て取れた。人間には美しく見える角度がれば、そうでない角度もある。美しい角度のみから映像を構成するということは、女流画家の生活をカメラに収めると言う単純な撮影とは別の意図がある。「痛みが美に変わる時 画家松井冬子の世界」と言う題名に収束するように。
 私は松井冬子の生い立ちについては、何も知らない。しかし、彼女の語った内容からは、随分屈折した人生を生きてきたのではないかと感じた。「お転婆」と言う表現では済ますことのできない厳然たる事実を、彼女は無痛症の人間のように、事も無げに語った。耳が不自由になるような殴り合い、首の骨が折れるほどの争いがかつてあったのだ。平然と語られることによって、その不気味さ、深刻さが一層印象に残った。彼女の人生を知らずに、彼女の作品を語ることはおこがましいことではあるが、敢えて感じたことを書いてみたい。

 彼女の描く臓器は、甲冑である。彼女を男たちの暴力、不合理、理不尽さから守ってくれる鎧である。それらはどのように彼女を守るか。どんな美人も一皮向けば糞袋と言うような表現があったと思うが、人間は皮を向けば全く異なる姿をしている。そしてその姿は余りに見慣れないために、大抵の人間ならば目を背ける。醜い性欲の虜となった男でも、内臓をこれ見よがしに露出する女には近付かないであろう。
 そして、この鎧、甲冑と化した内臓は、やがて外臓となり、別の存在意義を持ち始める。子供たちが自分達の身の安全を守ってくれる人々をヒーローとして崇め、憧れるように、彼女は臓器(外臓)に憧れ、美を見出すようになる。敵を怯ませていた内臓は、英雄として、独立した美を主張し始める。
 実験用の二十日鼠を数時間掛けて解剖し、臓器の配置、形を丹念に写し取ってゆく。彼女は臓器を見て、美しいと言った。臓器も本来生物の持っている形なので、精巧に造られており、美を感ずることは理解はできる。私個人としては美しいとは思わないが。その感性は無気味ですらある。ネオフィリアか、と思わせるような。美しいと思うものは、解剖せずにはいられない、つまり相手の死によってしか、その美しさが感じられないのだろうか。内臓が見えると言うことは、通常は対象の死、生命の休止が原則となる。外科医が手術をするのでなければ。医者は蘇生させるために、生きながらえさせるためにメスを使う。松井は美の探究のためにメスを入れる。(私は、『蛙戦記』と言う戯曲で、自分の好きになった対象が過剰な愛、愛撫、抱擁によって死んでしまうまで愛する、エフタル殿下という人物を考えた。彼は小鳥や小動物を貰うと、死ぬほど握り締めて、愛を表現してしまう王子である。人間に於いても同じことをする。)
 坂口安吾の夜長姫は、疫病に罹り、きりきり舞いして死んでゆく村人の姿を美しいと思い喜んだ。この感情はどこから出てくるのだろうか。これは死を見ることの喜びではなく、死から自由ではない、宿命に左右される弱者が、弱者として運命に抗せず死んでゆくこと、あるいは諦めに対する賛美なのかもしれない。他力本願的な、全ての信仰を弥陀に預けるものの、弱さゆえの、信仰の強さである。
 
 耳男が姫の胸に錐を突き刺した時、姫は言う。「好きなものは呪うか殺すか争うかしなければならないのよ。・・・」松井冬子の作品にこの台詞が当てはまるかどうか分からない。しかし、夜長姫のような魔性の女のような魅力を感じたのは確かである。尤も、夜長姫であればもっと美しくなければならない、私の理想像であるから。

 何度も浪人して入った芸大。単に画家になりたいのだったら、芸大に行かなくてもいいと思う。最難関を突破した人間というお墨付きを貰うのがその目的だったのだろうか。挑戦し続けたその根性は、自分の拭いがたい過去の何かに挑戦しているように思われ、vendettaのような執念深さも感じる。

 ちなみに、松井冬子の話をしていたら、デッサンを教えている画家に、彼女のデッサンは、西洋美術的すぎ、日本画はこんなデッサンじゃぁないけどなぁ、と言われた。また、内臓をそのまま描くと言うのは直接的すぎる、上村松園の絵にもっとおどろおどろしい絵がありますよ、直接的な表現を一切使っていないもので、とも。 

 いずれにせよ、いろいろと考えさせてくれた画家ではあった。

1995年2月9日木曜日に、私が書いた詩の一部:

試作その三
人の肉が大安売りです
是非、豚のご主人のお店へ行って御覧なさい
若い雌人間の肉が刻まれて山積みです
赤ん坊の柔らかい肉はいかが
肉饅頭に最適です
雌の胸肉は脂肪が多くて超廉価
エイズで死んだ人間
ペストで死んだ人間
癌で死んだ人間
自殺した人間
事故死した人間
戦争で死んだ人間
人間は至るところで腐っています

人間の肉の叩き売りをしていますよ
禿鷲のご主人の店です
棚には赤札が満艦飾
それこそ猛禽たちがやってきては買い漁ってゆきますので
飛ぶように売れていますとも
・・・・・・・(以下省略)

原始言語 [変化]

 今日、世界のニュースをNHKで見ていて思った。ベルファストの鶏もコケコッコーと鳴いている。これは驚きである。分かっていることではあるが、改めて驚きであった。牛はモーと吼えるだろうし、馬はヒヒーンと嘶くだろう。しかし、しかしながら、この人間という種は言語を持っており、その発せられる言葉の意味によって、相手の考え、感情、状況を判断しようとする。件の動物の鳴き声ですら表記、表現がことなる。地域によってはその声を認識されないことすらある。言語の違いは、発想、文化の違いでもある。
 東武動物公園の初代園長だった西山氏は、上野動物公園で河馬の飼育係をしていた時に、フランス人の女性だったと思うが、彼女に動物園を案内する役目を仰せ付かった。西山氏は外国語が話せない。しかし、なんら不自由はなかった。なんとなれば、彼は動物と意思疎通をしていたので、人間も動物の一種と考えれば、言葉は不要だったのだ。彼女も満足して帰ったらしい。私は、この話を読んだとき、なるほどと感心したものだ。ボディーランゲージの本を読んだのもこの話を知った頃だった。
 原始言語を考えてみると面白い。私がここで言う原始言語は、アウストラロピテクスやネアンデルタール人達に共通言語があった、と言う意味ではない。そのような共通の母言語を研究する学者もいたと思うが。人間と言う種は、鶏や犬や猫のように、同じ音声を発していたはずである。それが、コケコッコーやモーのような表記にするとどのような音声だったのか。どうすればこの原始言語、音声を再現できるのか、今後考えておこう。私は原始言語は、ヒトが知能を有するために、鶏や猫のように数少ない音声によって表現されるとは考えていない。もっとずっと複雑だったろうと思う。
 原始言語があったにも拘らず、たまたま声帯があるために、音程や音自体の変化をお互いの意思をより細かく規定するために固定化させ、子々孫々伝えることになったのである。九官鳥やセキセイインコも音声を変化させることが出来るが、それが言語とならないのは、大脳との関係があると思うが。記憶力がないと、変化を変化として保存しておくことが出来ない。類人猿は言語がないと言われているが、短期記憶は非常に優れた能力を示したりする。緑という色を抽象的な単語によって覚えるのではなく、色そのものとして記憶しておく。人間の場合は、その緑は範囲が広く、より正確にするためには、更に細かい定義をすることになる。黄緑、深緑と言う水準から、舞台照明のようなゼラチンの番号表示もある。それだけ記憶する単語量が増える訳である。そのため、世の中に住んでいる学者と言う種類の人々は、自分の専門分野に於いては、言葉の使い方が正確である。それゆえ、彼等の話は具体的、専門的で興味深い。彼等の話は七面倒くさいと思う向きもあるかもしれないが。
 人類が経験してしまった言語による変化は、変化速度に加速度をつけてしまった。いまさら、原始言語に戻ることは出来ないが、それがどのようなものであったかを知ることは、人種ごとに、地域ごとに異なる言語の成立を考える上で、非常に重要であると思う。聖書にあるバベルの塔の話は、実に叡智に満ちた例え話だ。確かに、人類は多くの言語のために意思の疎通に障害を来たし、お互い不信感を抱き、殺し合い、憎みあい、戦争を繰り返している。いっその事、言葉を話すことの出来ない猿であった時代に返れば、人間はもっと平和で仕合せな時を送ることができるのかもしれない。エデンの園で暮らしていたアダムとイブも、知恵の林檎を食べてしまったために、つまり現実を知ることによって不幸になった。(彼等は裸体であることを認識し、慌てて恥部をイチジクの葉で隠したが、この羞恥心はどこからきたのか。改めていつか考えてみたい。)
 化学では不可逆の法則がある。しかし、敢えて逆行して、人間については多少楽観的に考えたい部分もある。そうしないと、自分の存在意義すらなくなってしまうからだが。知恵の林檎を食べて善悪を知った上で、原始言語時代に近い発想をもって生活をすることはできるだろう。生き物とはそも、利害関係が対立した場合には、共存できないのである、と知れば、憎みあうことも、殺しあう必要もない。知った上で、寛容になることができれば、世界平和が訪れるであろう。
 そして、あの「三歩馬鹿」と呼ばれる鶏は、未来永劫世界中でコケコッコー(日本語表記)と啼き続けるのであろう。あぁ、なんと平和な生き物だ。

クラインの壺 [変化]

 一昨日2008年3月22日土曜日の午前中、電車の中で考え付いたことを書いておきます。
 クラインの壺は、概念上のものであり、三次元空間では再現できないのではないか、と言う考えが頭の片隅にありました。これをなんとか解決する方法はないものか、と。そして手帳に図を描きながらふと思いついたのが、千歳飴のような棒でした。この千歳飴(円柱)は縦にして真上から見ると円です。その円の半分(半円)を表とし赤い色を塗ります。下半分のを裏(白色)とします。続いてこの千歳飴の両端を金槌で叩いて平たくします。宛ら紙のように。両側に水かきのついた櫂のような形のものが出来ます。これをメビウスの帯と同要領で円にして、両端は180度回転させて貼り付けます。そうすると、三次元のメビウスの帯ができます。こうすれば無限軌道ができるのではないか、と思った訳です。赤い面を歩いている蟻は、180度回転して貼り付けられた継ぎ目のところから白い面を歩くことになり、再度継ぎ目に到達すると今度は赤い面になる。
 一つ気になっていることがあります。二次元には厚みがあってはなりません。メビウスの帯はどんなに薄い紙で帯を作ろうが、それはミクロの世界では三次元の板になります。しかし、表面を歩いている分には、これは厚みはありません。同様に、千歳飴のメビウスの飴棒は、表面を歩いている分には厚みがなく、二次元です。この解釈でよいのかどうか、これが気になっています。

メビウスの帯 [変化]

 宇宙は無限である。有限ではない。果ての果てはどこか。子供の頃から、考えると腹の底から不安感に満たされたものである。実は、この感覚は母も持っていて、宇宙の果ての果ての果ての・・・と考えるとぞっとなったので、考えるのを止めたんだよ、と教えてくれたことがある。授業中に、ふとこの果ての果てのことを考えたことがあるんだよ、と。このような、無限の概念を考えてしまうのも、家系であり、遺伝であろうと思う。金儲けや出世には全く関係のない、戯言のようなものであるから。
 今日、思いついたのは、宇宙は実はメビウスの帯になっているのではないか、と言う考えである。ブラックホールがあり、ビッグバンがあり、膨張があり。宇宙にも寿命がある。小宇宙が誕生する。まるで生命そのものである。
 無限と言うものを考えていると、堂々巡りしているのに気付く。果ての外、その外の外には何があるか、そのまた外には・・・何のことはない、同じ道を辿っている。エッシャーの絵にある蟻たちのように、メビウスの帯の上をぐるぐるめぐっているだけではないのか。そして、宇宙も、生成と消滅はこのような永遠の堂々巡りを繰り返す「閉じられた空間」になっているのではないか。
 宇宙を考える時に、私は勝手にこの「閉じられた空間」を前提にしている。孫悟空は金斗雲に乗って、はるばるやってきた山の頂上の岩に得意満面で文字を書いた。何とそれは仏様の指で、彼は本の限られた空間をこの世全てだと思い大飛行をしたと勘違いした。人間など、所詮井蛙にすぎない。宇宙は膨張していて未来永劫戻って来ないと考えられている星達も、実はこの水準の話なのではないか。
 私は宇宙は単なる帯ではなく、裏と表の繋がっているメビウスの帯になっていると思う。なぜならこの世は二元論で考えた方が収まりがよいからだ。経験的にはあることを「する」と「しない」の二つしかない。とすると、宇宙の起源も、この「する」と「しない」の二つがあるわけで、その均衡を保つために、どこかで結びついているのではないか。
 以上が、私が宇宙物理学者に聞いてみたい質問である。

螺旋とフィボナッチ数列 [変化]

 先日のブログのコメントに、すういちさんがルドルフ・シュタイナーの少年の7年周期説を紹介した。私は果たして自分にその7年周期が当てはまるかどうか考えてみたが、どうもしっくり来ない。
 代わりに考えてみたのが、フィボナッチ数列による、螺旋的周期説である。1、2、3、5、8、13、21、34、55、89.人生では、通常これだけの変化時期があれば十分であろう。多い人間で10回の変化期がある。誕生した時。二歳前後になって歩行を始めた時。三歳になって反抗期あり、多少の自己が確立され始める時。文字も言葉も格段に多くなる五歳。かすかな恋愛感情も持ち始める8歳。論理的思考の始まりつつある13歳。自分だけの世界で得意になり、増上慢になりうる21歳頃。やっと自分以外の世間の見え始める34歳。自分の行動することに責任を持つことのできる55歳。89歳。これは、どのような境地なのでありましょう?
 心理学ではいろいろな分類があるようだが、私としてはこれを一つの仮説として、提案したいと思う。

ピーターパン症候群 [変化]

 変化できず、子供時代の楽しさだけを維持しようとしたのが、バリーのピーターパンです。ネバーランドから戻ってきたら、窓が閉まっていて、家の中(大人社会)に入ることが出来ず、成長することのできなかった少年。或いは、変化することを阻止された少年だったのかもしれません。変化することの出来なくなった少年は、ネバーランドで冒険をして面白楽しく暮らしています。もっとも、その喜びは、他の喜びを知らない、無知に基づく喜びなのかもしれませんが。(この無知或いは無変化、の喜びは、後日論じてみたい話題ではあります。)
 一般的にはピーターパンのように永遠に少年でいることは出来ず、変化しながら成長してゆきます。その過程では、肉体的変化も精神的変化も、人生に於いて大きな意味を持っています。その変化の大きさは、人によっては外に向かって発散され、他者を傷つけたりすることも起こります。それと反対に自己自身に向かってゆく人は、自己自身の世界を作り上げたり(これはかなり積極的な場合)、自己否定を始めて自傷、自殺したりします。
 大きな精神的な変化が起こる時期は、自分の経験からすると、第二次性徴が顕著になってくる頃、高校受験の頃、大学受験の頃、そして、社会に出る頃が考えられます。第二次性徴が現れてくる頃、私は絶対に自分だけは大人にならない、と心の中で宣言していました。
 
 そして、社会に出てからは、自分には何ができるのか、自分の存在意義は何か、と自問自答を始め、絶望し、気分的にはどん底を味わったこともあります。そして、その時々、私は変化に対応したり、できなかったりで、精神的な不安を持ちながら生きてきました。
 
 ところで、はっこうさんの記事に、抗酸化溶液なるものがありました。万能粉石鹸えみはなる商品も出ているようですが、これを製造販売しているのは有限会社エコットです。不思議なバケツ「いきいきぺーる」と言うものもあります。会社紹介の記事には、オタマジャクシが蛙にならないで八ヵ月後に泳いでいる写真が載っています。恐らく本当に変態しないのでしょう。それが小鳥の囀りの聞えない春(レイチェル・カーソン)でなければよいのですが。
 抗酸化と言う働きは、変化の原因である、酸化を抑える、抑制する、防止するなどが作用のようです。確かに、ワインも酸化してしまうと味が落ちる、と言いますし、皮を向いた林檎も赤茶けてくると、美味しさが激減します。濡れたままにしておくと、鉄製のスコップは赤錆を生じ、長い年月放置しておくと、ぼろぼろになって使えなくなります。他の金属も酸化して、分解されてゆきます。
 ちなみに、英語版の酸化の定義は、分子、原子、或いはイオンによる電子の喪失(放出)であるようです。(Oxidation describes the loss of electrons by a molecule, atom or ion.) 反対の概念が還元で、電子の取得であります。この抗酸化溶液を効果的に使えば、病気を直し、老化も防げるかもしれない、と言うことが暗示されています。もう少し、こちらははっこうさんの人体実験の結果をお待ちする以外に手はなさそうです。
 
 話を、ピーターパンに戻しますが、ピーターパンでいたいと考える人間は、意外に多いのではないかと思います。想定内の変化だけを相手にして生きていたい、と言う願望が強いのではないでしょうか。もし、変化しないでいられるなら、そのままでいたいと、考えることは自然だと思われるからです。変化しないでいいのであれば、余計なエネルギーも、労力も、知力も不必要です。人間は、放っておけば七の大罪の一つに数えられるように、怠け者になる傾向が強いのです。
 しかしながら現実の社会では、艱難汝を玉にす、と言う言葉にあるように、「不可避である変化」が人間をより人間らしく、他の生物と異なるようにさせています。変化対不変化。この問題は、ゆっくりと考えてみたいと思います。
 

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