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第16回 風景を描くペン画展  [日記・雑感]

DSCN3622.JPG 今日は、夏からその開催を気にしていた風景を描くペン画展を見に、中央線国立駅前のコートギャラリー国立は行ってくる。昨年モロさんが言っていた様に、展示会場は2箇所を借りて、作品数も倍以上出されているようだった。クラスがあるので15:30以降でないと在廊しないということだったので、15:15頃の到着を目指した。乗り継ぎがよく、15:00には到着した。
 着いてからは、ゆっくりと作品を鑑賞する。
 殆どの作品が黒一色だが、何点かは水彩絵具で彩色されている。その色付けも手慣れたもので、光の調整もよく、見事な作品があった。
 奥の方の展示会場にあったA氏の作品は、他のペン画教室の受講生が盛んに感心しているくらいで、本当に細部の線まで気を緩めずに描いていることが分かり素晴らしい技術だと思った。作品が力強くなるための必要条件は、基本を丁寧に、徹底して妥協しないことかもしれないと思った。線にばらつきが少なく、あるべき線があるべき箇所に引かれている。
DSCN3624.JPG 雨上がりの国立新美術館テラスを描いた作品があったが、この方の絵は濡れた水の表現が見事だった。水の質感、濡れた床が良かった。この方は、フランスのどこかの街の交差点風景も描いていたが、展示されていた人たちの中では、唯一人間を風景としてではなく人間として描いていた。人には得意不得意があるので、人間を苦手とする人もいる。無機的なものを苦手だと思う人もいると思うが。
 水準の高い受講者もいるが、彼等は熱心で一日中ペン画を描いているそうで、まるで職人のようだと思う。
 モロさんの作品とペン画教室の受講者の方々の作品との違いは何かという事を何度か考えてみた。結論は、モロさんの絵には、対象として表現されている風景以外の詩情、物語性、遊びがあるように私は思うのだが。
 左の写真はTALENS CLUBの小冊子TCの取材を受けたモロさん。
 会場の一角にあるテーブルの所に坐って、一時間以上話をする。次なる共同作業を何にするか。文章作品『ペン画物語』は一旦保留にし、まずは短い映像作品でも作ってみましょうか、と言う話になる。もし『ペン画物語』(モロさんの伝記)を映像化するとなると大変なことになるので、比較的簡単にできる一部分だけを撮影してみるのはどうか。こんな話をして少しだけ盛り上がる。私が比較的直に映像化できそうだと思う場面はパリの屋根裏部屋でひたすら絵を描くモロさんの姿。もう一つは画材店で店員エリザベと言う若い女性に会い、淡い恋心を抱いたあの出来事を"Destino"風に、シュルレアリスム風に描くこと。アンリ・ルソーの『夢』のような場面がどんどん展開してゆく。暗闇を通り、深いジャングルを怪我をしながら迷いながら進んでゆくと、ついにまばゆいばかりの光を全身に浴びる。眩しい目をゆっくり開けると、自分は日本の生まれ故郷の奥多摩にいる・・・さて、どうなることやら。
 『ペン画物語』の前に、別の小作品を考えている。

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Her Mother 佐藤 慶紀監督 続報 [日記・雑感]

DSCN3563.JPG 昨日佐藤慶紀監督『Her Mother』の第二回目の試写会がありました。映画評論家も何人か来られていたようでした。切通理作さんも来られ、記事も書いておいでのようです。
 そして、もしかするとその中には報知新聞の記者の方がいらっしゃったのかもしれません。本日8/31のスポーツ報知の14面に大きく取り上げてありました。今日ご紹介するのはこの記事です。
 最も大きく取り上げられているのは、殺人者の役を演じた荒川泰次郎さんですが、大学時代には九州のチャンピョンですから、彼が中心になるのはスポーツ紙としては当然の扱いだと思います。身体も引き締まっていて、栗の里の愉快な女房殿も盛んに「恰好好い!」と申しておりました。ポスターの写真は私も好きです。ポスターとしても仕上がりがとても良いと思います。
 既に感想の中でも述べましたが、殺した妻の秘密も自分の中に秘めながら死刑判決を受け入れてゆくその姿は、好感の持てる良い演技だったと思います。
 元ボクサーですから、身体の切れもありますので、これから本当に期待できる俳優さんではないかと思います。

DSCN3564.JPG 序でながら、紙面左側にすこし記事が載っていますが、栗の里の愉快な女房殿も、”怪演”と言う表現で紹介されています。
 
 相手の心を見透かしたような怖さ、怪しさ、独特の雰囲気を漂わせ、リアルに”怪演”
、と非常に的確な評言を書いて頂いています。
 
 実際に、彼女は台詞の一つずつを読み込み、全て暗記して納得しないと演技ができないタイプなのです。今回は、台詞に含みの多い脚本だったので、かなり苦労したようです。実際に、この映画の撮影が終わってからも暫くは疲れ切っていました。それだけ彼女にとっては重い役だったのです。
 記事にしていただいたことで、今日はすっかり大喜びしていることと思います。
 

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佐藤 慶紀監督『Her Mother』 [日記・雑感]


DSCN3509.JPGHER MOTHER 佐藤 慶紀監督作品

娘を殺した死刑囚との対話

娘を殺害した加害者の死刑を止めようとする母。一体なぜ・・・

期間:9/9(土)~10/6(金)ロードショー 連日10:30~
場所:新宿K's cinema
<その他注意>※K's cinemaのHPより
 ・当劇場は84席の 定員・入替・整理番号制 となっております。
 ・3階入口のカウンターにてチケットをご購入の上、入場番号付き整理券を  お受け取りください。
 ・特別鑑賞券、招待券をお持ちのお客様も一度受付カ ウンターにて入場  番号付き整理券にお引き換えください。
 ・上映開始時刻の10分前(作品により5分前)より、10名様ずつ整理番号  順でのご入場となります。
 ・当劇場は消防法により、お立ち見席をご用意しておりません。満席の際  にはご入場をお断りする場合がございます。あらかじめご了承下さい。

 


 以下、この映画を見ての感想を述べたい。
 
 この映画は「半倒叙」方式で作られており、刑の確定後、この事件に関わる人々がどのように考え行動するかが描かれている。それは答えられることのない、投げ掛けられただけの疑問集のようでもある。

注)倒叙:inverted detective story 『刑事コロンボ』では最初に犯行現場の状況が見せられてから、その後容疑者に質問を投げ掛けながらコロンボ刑事が追い詰めて行くという展開になるが、これを倒叙と呼ぶ。半倒叙は、その後の展開で、全ては明らかにならないものをそのように呼ぶ(ウィキペディアによれば)そうである。
 
 娘を殺された母晴美は、娘みちよが殺されたという事実のみしか考えようとしない。自分たちは被害者側にあるのだということしか考えようとしない。現実には何があったのか、事実そのものを直視しようとしない。知ることを回避し続ける。事実に向き合おうとさえしなければ、その事実そのものを否定できるだろうという、安易な自己防衛である。この自己防衛本能は普遍性が高い。(ついでながら、往生際の悪い政治家は全員これが当てはまる。)
 娘を殺害した孝司は、裁判では娘側にも原因があったことを主張するが、刑が確定しまった後は考え方が反転する。殺してもよい人間がいる、と考えていたが、それは間違っていたと確信するようになる。彼になぜこのような心境の変化が訪れたのかは好く分からない。自分の犯した殺人罪のみを考え、それを償うことのみが自分にとっての救いなのだと考えたのかもしれない。孝司はこの信念を自分の死の時まで変えようとしない。自分の犯した殺人の罪も娘達の罪も、自分がこれ以上何も弁明しないことで背負い、これ以上の憎しみの連鎖を断ち切ってしまおうとするかのように。
DSCN3510.JPG この死刑囚の息子孝司の心境の変化は、最初晴美の元夫に、そして続いて頑なな晴美自身の考え方に変化を齎す。

 そして、晴美は知りたくはなかったが、知らねばならない事実に向き合わなければならないと考え始める。ソフォクレスのオイディプスのように、知るべきではない、知れば自分が不幸になってしまう事実を知らねばならない状況に追い込まれてゆく。
 しかしながら、運命の悪戯によって悲劇に追い込まれてゆくオイディプス王と異なり、晴美は利己的であり、自己中心的な考え方をする人間であるように思われる。それゆえにこの心理はより一般性を持っているかもしれない。 
 この晴美という自我の強い利己的な女性を西山諒が好演している。その演技により、死刑執行されてしまう孝司の母親の悲しみが、より一層強調される。
 また、怒りに任せて殺人を犯してしまった孝司。彼は深く愛していたからこそ、裏切られてみちよとその恋人を殺した。過去の過ちは全面的に受け入れ、言い訳はしない。殺しても良い人間がいるという考えそのものが間違っていたのだから。無言を貫いて死んでゆく、そこには孝司という「男の美学」があるようにも思える。よい表現かどうかは別にして、暴走族のリーダーが配下の者全員の責任を取って、自分ひとりが実刑を受ける姿を想像してしまう。「悪いのは俺一人で、俺が全部悪かった。あいつらぁ、関係ねえ。俺がやったこと。」荒川泰次郎が孤独、その寂しさ、悲しさを真剣に演じている。
 殺人者であるからには有罪ではあるけれど、たった一人の愛しい息子が、終身刑にならず処刑され自分よりも先に死んでしまうという苦しみ、悲しみ。この心理を終始一貫て演技したのが栗の里の愉快な女房殿。それを全身全霊で演技したことが
Mention spécialeに繋がったのかもしれない。


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岡本太郎美術館へ行く [日記・雑感]

 20170429 okamoto taro museumDSCN3285.JPG昨日4月29日の土曜日は、午後に近所にある岡本太郎美術館へ行く。岡本太郎は、その絵画の作品や彫刻作品のいくつかを知っている程度で、全体像が見えなかったので、それを知り、果たして自分は岡本太郎をどう思うのか確認するのが目的だった。彼の著書の何冊かは読んでいて、その考え方には概ね共感するにも拘らず、彼の作品となるとどうしても好きになれない、本当に好きになれないのかどうか確かめてみよう、と。
 小田急線の向ヶ丘遊園南口から真直ぐに山に向かい、10分ほど歩くと、右側には日本民家園がある。そこを過ぎて少し登って行くと左側に「かわさき宙(そら)と緑の科学館」があり、ブルーとレインやD51が展示されている空間がある。そこを更に進むとメタセコイアが出迎えてくれる。緑の木々と池の奥に岡本太郎美術館がある。
 天気が荒れるということで、雲行きが怪しかったので、美術館に入る前に野外に展示してある太郎の作品を見た。予想どおりで、全く面白くない。美術館の中にある作品もこんなものなのだろうか、と少し不安になる。
 入口では券売機があるので、そこで自己申告で表示に合わせて画面を押して購入する。券には一般、団体などと表示がされたものが出てきて、それをもぎりの女性が確認するという流れになっているのだろう。
 会場に入ると、最初に迎えてくれるのは大阪万博のために制作された太陽の塔の顔の彫刻だ。少し期待感が高まる。油絵作品が目に飛び込んでくる。例の強烈な赤。赤は血の色で、岡本太郎には子供の頃に大量の血を見るという衝撃的な経験があったそうだ。しかし、どの作品も自己主張が強い割には、個性がなく、何か物足りない。この物足りなさは、変わらなかった。上野にある西洋美術館の松方コレクションにあるピカソの絵も、物足りなさを感じるのだから、それは同じこと。画面が大きいのに、ただ色を雑然と塗ってあるだけ、と言う印象を拭えない。完成度が足りない、と言う感想。岡本ファンにとってはそれがいいのだろうが、私には納得できず、要は好き好きの問題なのだろうと思う。もう一つ、色が汚い。渋谷駅に壁画があるが、あの色もどろどろしいて汚い、だから見たくない。色が綺麗かどうかと言うのは使う絵具にもよるが、それ以上に配色、画家の持っている色彩感覚だと思う。
DSCN3295.JPG 完成と言う点について少しだけ考えてみる。工業製品のように一定の完成イメージ、或いは完成予定図、設計図等があると、それ以下のものは未完成と判断することができる。芸術作品の場合には、この考え方があてはまるのか、と言うと難しい。一見、未完成に見えても、何か施すことによって今ある何かが失われてしまう、そんな時は、工業製品のような完成度に達する前に、完成としてしまうことになるだろう。
 岡本作品の場合どうかと言うと、むしろ完成かどうか見極める前の段階で終了されてしまっている印象が強いのだ。
 太郎は、頭のよい人間なので、頭でっかちの感が否めない。理論が先行してしまうのだろう。今まで人がやらなかったことを自分がやる、と言う意識が強烈である。その気持ちが強すぎて、空回りしているように感じられてならない。芸術と言うのは、他者がやっているかどうか、自分だけがやっていることなのかどうかが問題なのではなく、自分がそれを好きかどうか、それをやってないと自分でないように感じられるからやらずにはいられない、それが本質だと確信している。評価を受けるかどうか、それは自分が決めることではなく、時代と世の中が決定するものなのだ。時代にあっていれば、評価されることもあるのだが、そうでない人も多くいるのではないかと。
 岡本太郎の好いところは、芸術の良し悪しは自分自身が決めればよい、と堂々と発言している所である。海外の有名な権威が推薦しているから、とか、画壇の重鎮が評価してくれたから、と言う判断ではなく、自分自身気に入ったかどうかそれが全てであると宣言してくれたことだと思う。周りを見回しても、実際に自分の価値判断ができない人間の方が圧倒的に多いと感じている。
 また、岡本は、「すぐに評価されないこと」の意味を考えさせてくれる。後世になって判断が決まるものは、同時代人には適切に評価できない。再評価とか発掘と呼ばれるものもそうだ。尤も彼自身は若い頃から十分に評価され活躍してきたのだったが。
 犬の植木鉢(岡本太郎)DSCN3381.JPG岡本太郎の作品で私が気に入ったのは、下絵の描かれたものを強化プラスティック(FRP)で作り、色塗りしたもの、家具や食器などのデザイン、犬の形をした植木鉢などだった。FRPで作られた作品は、色の塗り残しがなく、しっかりと完成されているので、美しい。太郎がデザインしたものは、独特で美しいものが沢山ある。全てがよいのではない。犬の形をした植木鉢は、近所の子供が見に来たというが、遊びがあって面白い。他にも下絵として描かれた油絵を基にした壁画の石膏型。岡本の色彩感覚が好きではない私としては、彼の作り出した形そのものの面白さ、美しさをその石膏型に見いだす。とても魅力的である。
 彼は、創作しながら遊んでいたのだろうと思う。彼の部屋の一部が再現されているが、そこには彼の作った椅子や彫刻作品などが置かれている。なんと楽しい空間だろう。彼のこの遊びの世界は大好きである。
 もし岡本太郎に、うんざりするほどの攻撃的な顕示欲がなければ、もっと好きになれたのにと思う。パフォーマンス、著作活動、壁画の制作などを見るだけでも、魅力的な人間であることは今回再認識することができた。

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事実は小説よりも奇なり [日記・雑感]

 事実は小説よりも奇なり。Truth is stranger than fiction.この言葉はバイロンの詩”Don Juan”の中にある言葉だそうである。この警句を引用した証人がいた。彼自身は偏った考えの持ち主のようではあるが、今回は自分の人生を否定されたようで、真剣に怒っているのだろうと思う。実際に、事実は小説よりも奇、そういうものだろうと思う。人智などは、宇宙全体の英知からしてみれば、高が知れたものだろうと思う。
 実際には、今回の事例は少しも「小説よりも奇」ではなく、利害関係に塗れた関係者ならば誰でもが行いうるものとして、想定内の人間的な言動が事実として起こっていたのに過ぎないとは思うが。
 事実は一つしかないのに、受け手の解釈によっていくらでも捻じ曲げられる、それが人類の歴史であった。如何に事実に別の装いをさせることによって、自分の主張を裏付ける根拠とするか。或いは自分の都合のよい事実のみを集めて歴史は書かれた。文書で明確に書かれているにも拘らず、解釈を変える。これは宗教戦争の元にもなる。文字通り取るべきか、文字の裏にある書き手の意図を読み取るべきか。これは簡単には解決できない問題である。
 また、事実がない場合には後付で事実が捏造され、繰り返し語られることによって「事実」になったこともある。括弧つき事実というのは、客観的歴史的な事実ではなく、ある人間によって事実であって欲しいと考えられる事実であるという意味である。
 事実とされている物自体が胡散臭さから自由ではない、と言ってもよいのかもしれない。人間は感情や好き嫌いを生まれつき持つために、どれほど冷静になろう、客観的になろう、公平になろうとしても、事実把握についても、仮令微量なものであったとしても、意図が入ってしまうだろう。どんなに小さな意図であっても、それは長い目で見ると思わぬところに想定外の影響を及ぼしてしまう可能性がある。
20170122DSCN3224.JPG 想定外であるからこそ、事実は面白く、否、面白くないばかりかおぞましい、恐ろしいことの方が多いかもしれないが、人類の想定の枠を少しずつ拡大してゆくことができるのだ。
 左の絵は、今年の1月22日に、日本や世界の政治や社会にあまりに多くの胡散臭さを毎日のように感じ、寓意的な絵を書いてみたいと思い、下書きとして描いたものである。仮題は『これは何と言う食べ物でしょうか・・・』
 ここにいる三匹は、何度も登場する予定である。以前公開した『謀議』と言う絵と同じような主題、思い、感想なのだ。
 誰を信ずるか。誰ではなく事実を信じる。そして、基本的には、私は弱者の側に立つことにしている。なんとなれば、弱者は一般的に権力によって曲げられた事実を受け入れさせられたり、不利益を強要される傾向が強いからだ。
 そして、民主主義の最も重要な部分は、弱者の権利(発言権、所有権、安心できる、衛生的文化的生活権等々)、自由の保障にあると信じている。選挙が行われていれば民主主義が機能していると主張する人々もいるようだが、形だけの選挙であれば、どの国でも実施している。また、英雄を望む人々もいるが、私は人間の能力には大差がないと思っているので、一番手でなくとも、二番手でも三番手でも機会があれば活躍できるはずである。代わりがいない(そのようなことなないのだが)からと言って現状を維持し支持することが最も無責任だと考える人間でもある。


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嬉しいニュース:でかした、栗の里の愉快な女房殿! [日記・雑感]

Mention spéciale du Jury International


Hiromi Hakogi dans Her Mother de Sato Yoshinori (Japon)

 佐藤慶紀監督作品『Her Mother』がフランス東部の小さな町Vesoulで開催される第23回ヴズール国際アジア映画祭(Palmarès du 23ème Festival International des Cinémas d'Asie de Vesoul) に春本雄二郎監督『かぞくへ』が、コンペティション部門に招待出品されたそうである。その審査発表があり、映画は受賞は逃したものの、審査員から202000年正月に物す その1.JPG年の歴史で出したことがないと言うMention specialeを気になるあの女優に出そうと言うことになった。それがなんと、殺人犯の母親役を演じた栗の里の愉快な女房殿であった、という知らせが2月15日にフランスにいた監督から彼女のスマホにメールが届いた。なんかの間違いでしょう?と、監督に確認しながらも、後で送られてきた添付写真を見て大喜び。
 この国際映画祭の審査委員長はイランの女性監督Rakhshan Bani-Etemadと言う方だが、彼女が強く推薦した結果この賞を受賞することになったそうである。韓国での上映の際にも審査員の一人が褒めてくれたらしいので、きっと印象的な演技だったのだろうと思うけれど、まだ見ていないので何も言えない。
 まあ、どれくらい目出度いのか分からないけれど、めでたさも中位なり、おらが春、でも何でもいいのだ。目出度いものは目出度い。きっと、未来が大きく開ける、かもね、などと言って盛り上がっている。

予告編のurlは下記の通り。ビデオの後半にしょぼくれた顔をして写っています。
https://www.youtube.com/watch?v=gbIHbsobeWE

参考:
https://twitter.com/FICAVesoul


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2016-12-3ダリ展を国立新美術館へ観に行く [日記・雑感]

 20161203satDSCN3147.JPG昨日は、気になっていたダリ展を国立新美術館へ見に行った。当初の予定では先週だったのだが、体調が今ひとつよくないので無理をせずに、一週間遅らせたのだった。しかし、新日曜美術館で紹介されていたので嫌な予感がしたが、違わず、大変な人出だった。天気予報も土曜日は行楽日和になり翌日日曜日は雨模様になるだろうという予想をしていたので、その影響もあったのではないか。60分待ちという掲示もあったが、今更引き返すのも悔しいと思い、入場券を買ってからは小腸のように曲がりくねった列の中で、ひたすら入場できるのを待った。
 感想としては、自分が好きな作品は展示していなかったので、満足度は高くない。それでも、ダリらしい作品もあったので、そこそこ楽しむことができた。若き日のキュビスム時代の作品は、ダリらしさはなく、やはりシュルレアリスムの時代になってダリらしさが花開く。
 戦後には『ビキニの三つのスフィンクス』という三つの後頭部が遠近で並んだ絵があるが、原子爆弾、水素爆弾、あるいは中間子など、二十世紀最先端の科学や技術が齎した技術や発見には敏感だった様子だ。
 左の絵はチラシの印刷の写真を撮ったものだが、『謎めいた要素のある風景』(1934年)で、30歳の頃の作品。とてもダリらしく、色彩も構図も魅力的だ。
 短編映画『アンダルシアの犬』も上映されていたので、観る。眼球や蟻の場面が衝撃的だが、最後の砂に埋まる男女が象徴的でとても好きだ。
 『黄金時代』も上映していたが、63分なので、止めた。
 2003年に発表されたウォルト・ディズニーパリ・スタジオが作った『デスティノDestino』(6分)は短いので観た。この作品は既にfacebookでも紹介されていたので観たことがあったが、改めてより大きな画面で観て感動を新たにした。Walt DisneyとSalvador Daliの共同制作として1945年に着想され、経済的な理由から58年間お蔵入りになっていたものを、1999年に"Fantasia 2000"を制作中のWaltの甥Roy Disneyが再発見して完成することにして出来上がった作品である。ダリの絵画が随所に引用されている。楽しく、幻想的で、超現実主義的なアニメーションである。ここに紹介してある絵に似ている色彩、構図も出てくる。
 ダリについては、その題名がとてもシュルレアリストの詩人風だと思う。『海の皮膚を引き上げるヘラクレスがクピドをめざめさせようとしているヴィーナスにもう少し待って欲しいと頼む』(1963)、『チェロに残酷な攻撃を加えるベッドと二つのないとテーブル』(1983)。そういうところがとても個性的で、魅力的である。
20161203DSCN3146.JPG 

 ところで、左のもう一枚の絵は、昨日朝手遊びに描いた絵。長らく使わないで放ってあるボールペンのインキを固まってしまう前に少しでも使おうとおもって線を引く。少し、浮世絵を意識し、北斎も意識し赤富士を入れてみる。特に題名はないが、あえてつければ『知らざあ言って聞かせやしょう、あたいの名前はお富さん或いは赤富士と後姿の時雨れてゆく黒猫』


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Paul Delvauxポール・デルヴォー版画展 [日記・雑感]

yoshizawa garden galleryDSCN3129.JPG 今日は市川市真間5-1-18にある芳澤ガーデンギャラリーへ『ポール・デルヴォー版画展』を観に行く。ここで展覧会が開かれることは7月頃に国府台駅改札にあるチラシで知っていて、ずっと楽しみにしていた。ボール・デルボーは油絵の展覧会が催された時に、時機を逸して見損なって暫く後悔していたのだった。チラシに載っていた『庭』がとてもデルヴォーらしくて、原物も見てみたかった。
 京成線の国府台駅を下りて、和洋女子大学の方へ歩く。手前の歩道橋を右折。すると右手に木内ギャラリーの表示がある。更に千葉商科大学に平行している細い道を進んでゆくと右側に真間山弘法寺(ぐほうじ)がある。この寺はもともと開祖は行基だと言う。求法寺と言う表記だったものが弘法寺に後年なる。弘法寺は紅葉狩りが有名らしい。手児奈(てこな)と言う国造の娘の物語が有名な土地であることも帰宅後wikipediaで調べ分かる。上田秋成の『雨月物語』中『浅茅が宿』も下総葛飾真間の手児奈の伝説を下敷きにしていると言う。調べているうちに、とても素晴らしい場所に今日は来ていたことが分かり嬉しくなる。
 緑の多い住宅街の中に芳澤ギャラリーはあった。美しい場所に、美しい建物の画廊であった。
 P . DelvauxDSCN3145.JPG訪問する客も少なく、静かな空間と時間をゆっくり楽しむことができた。『ペン画物語』を書くに当って、少しは版画やエッチングのことも知っておこうと考えていたが、それとは全く関係なく、有意義な時間を過ごすことができた。デルヴォーにとって鏡、海が特別な意味を持っていたことも分かった。彼は鉄だったようだ。
 『海岸』と言う作品は、何故かボッチチェリの『ビーナスの誕生』を思い出させた。つまり、デルヴォーの海への憧れが、あのボッチチェリの海とアコヤ貝の描写が共通しているように見えた。
 左の絵は『ささやき』絹織物。デルヴォーの女性。彼は女性の裸体を沢山登場させているが、全くいやらしさは感じず、ギリシャ彫刻の石膏像でも見ているような感じがする。それは彼が女性を美しいものとしては見ているが、官能的な完成では捉えていないからではないかという気がする。
 デルヴォーの絵はシュルレアリスムの手法があり、遠近法や多消点が使われているのが面白い。彼は、どのような派閥にも属さず、彼自身の好きな世界を描き続けたようである。P. DelvauxDSCN3142.JPG芸術家としては、一つの理想的な生き方をした人間ではないかと感じた。左にある『庭』の絵、少しルネ・マグリットにも通じる世界がるが、やはりこれは間違いなくデルヴォーである。その絵を見て、直ぐに作家が分かると言うことは作家にとって非常に重要な点だと思う。誰が描いか分からない作品を描いても、空しい。「これは間違いなく彼の絵だね。特徴があるもの。」とか言って欲しいのだ。言われなければまだ作風が確立していない証拠である。
 デルヴォーの版画で面白かったのは「クロード・スパーク『鏡の国』のための連作」作品群である。そんなに古い作家ではないのに、その挿絵は19世紀を髣髴させる。若くして死んだ妻を剥製にし、剥製が変化した時ナイフでばらばらに壊してしまう男の物語が暗示的で、読んでみたいと。こういう挿絵はとても魅力的だと思った。残念ながら、クロード・スパークとは仲たがいしたため、挿絵としては一緒には発表されなったようだ

 超現実主義、ポールデルヴォーに興味のある方には断然お薦めの展覧会である。11月27日(日)まで実施している。
 このギャラリーの手前には木内ギャラリーがある。こちらは旧木内家別邸である。大きな樹木に囲まれて立っている。今日P DelvauxDSCN3144.JPGは、残念ながら16:30を過ぎていたので中にはいることは出来なかったが貴族議員も勤めた木内氏の立派な建物を再建したものだそうだ。我が家は川崎市麻生区であるが、市川市のこのギャラリーまで行くのにまるまる2時間掛かった。もう少し近ければ都思うが、遠いからいいのかもしれないとも思う。
 左のえは『ダンス』と言う絵だったと思う。この絵でも女性は裸である少しもエロティシズムを感じない。

 


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小説『審判』の為の挿絵 [日記・雑感]

 Kannaさんが、そのお友達の誕生日の贈り物として作成したポップアップアート(飛び出す絵本)がありました。ドールハウスのようで、いかにも女性らしく、遊びも楽しさも伝わってくる明るい作品です。その中に、何故か、蟷螂が2匹いました。それについて私が自分の描いた絵を思い出したとコメントを書いておいたら、どんな蟷螂が見たいという返事が書いてありました。そこでその絵の一部をここに紹介しておこうと考えました。
DSCN3125.JPG その作品とは、こちら(左の絵)です。この絵はもともと詩『審判』と言う作品の挿絵の一枚として描いています。裁判所に於ける一場面です。
 10月に入ってから、この詩『審判』を小説にして、とある出版社公募に応募しようと計画を立てました。自費出版もいいけれど、同時に、第三者の評価も問うた方がいいだろうと。栗の里の愉快な女房殿も、今回はどんどん送っちゃえ、と私に発破を掛け、勇気と力を与えてくれています。涙がでるほど有難いですねぇ、こういうのは。(泣いていませんが。)それで、毎日数ページずつ、この詩を元に小説に仕上げてゆきました。本日めでたく完成したので、明日郵便局から発送する予定です。公開した物は応募不可となっているので、こちらでは紹介できませんが。自分としては、最善を尽くしているので、結果はどうなっても構わないと思っています。勿論、評価されることを希望しないわけはありませんが。
 これからは、あちこちにどんどん応募しよう、原稿を送って評価してもらおうと思います。

 Kannaさんへ:こちらが私の描いた蟷螂です。腹が大きいので、多分雌の蟷螂です。裁かれる私を、傍聴席から見ている場面です。隣にいるのは蠍です。Kannaさんの絵にも、スーパーのような場所にビーバーのような動物がぽつんと立っているのがありましたね。
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キリコ風 その3 [日記・雑感]

 少しもキリコ風ではないかもしれないが、キリコを思いながら描いていたのでキリコ風と名づける。
 新宿駅西口から徒歩3分ほどの場所、西新宿に「ばんやき ぼるが」と言う店がある。旧青梅街道と新青梅街道の間の細い20161002DSCN3117.JPG通りに面している。職場が直ぐ近くだった時、毎日その店の横を通り出勤する。煉瓦の塀があり、一部苔むしていている。交差する角に位置していて、その角が開口部になっている。そこには囲炉裏のようになっていて、夕方店が開くと、モツなどを焼いているのが見える。煙が外に漂うように、設計されているようだ。中に入ったことはないが、雰囲気のある店で、ロシア文学、ボルシェビキ、コサック、ロシア民謡、チェーホフ、ドストエフスキー、カチューシャ・・・などロシアに関する言葉を連想する。肉を食べないので、行ったことがなかったが、店内がどうなっているのか興味津津である。あるブログ記事によると、寺山修司、山田洋次監督、高田純次なども訪れていたそうだ。
 ちなみに、新青梅街道に面して、栃木屋という店が昔は「取ってきて食はせるやまくじら 栃木屋」(逃げる猪の絵と猟銃で狙っているハンターの絵付き)という広告を小田急線の車内出していた。小学校の時この「食はせる」が正しく読めなかったので「たべはせる」とよみ、「たべはせる」とはどういう食べ方なのだろうと疑問に思っていた。30年以上前にこの店の前を歩いていた時、猪が吊り下げられていたのを見てぎょっとしたことがある。今はその店はなく、栃木ビルと言う建物になっている。ビルの入居者を表示する金属板には「栃木屋」と言う文字が、インキをはがされてはいるがしっかりと読み取れる。この証拠がなければ、自分の思い違い、記憶違いで終わっていたかもしれない。
 「キリコ風その3」の左の煉瓦は、ばんやきぼるがの塀も思い出しながら描いた。私は、人のいない波止場や海辺の風景が好きだ。それでも無機的なものだけしかないのは苦手。
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