So-net無料ブログ作成
検索選択
日記・雑感 ブログトップ
前の10件 | -

事実は小説よりも奇なり [日記・雑感]

 事実は小説よりも奇なり。Truth is stranger than fiction.この言葉はバイロンの詩”Don Juan”の中にある言葉だそうである。この警句を引用した証人がいた。彼自身は偏った考えの持ち主のようではあるが、今回は自分の人生を否定されたようで、真剣に怒っているのだろうと思う。実際に、事実は小説よりも奇、そういうものだろうと思う。人智などは、宇宙全体の英知からしてみれば、高が知れたものだろうと思う。
 実際には、今回の事例は少しも「小説よりも奇」ではなく、利害関係に塗れた関係者ならば誰でもが行いうるものとして、想定内の人間的な言動が事実として起こっていたのに過ぎないとは思うが。
 事実は一つしかないのに、受け手の解釈によっていくらでも捻じ曲げられる、それが人類の歴史であった。如何に事実に別の装いをさせることによって、自分の主張を裏付ける根拠とするか。或いは自分の都合のよい事実のみを集めて歴史は書かれた。文書で明確に書かれているにも拘らず、解釈を変える。これは宗教戦争の元にもなる。文字通り取るべきか、文字の裏にある書き手の意図を読み取るべきか。これは簡単には解決できない問題である。
 また、事実がない場合には後付で事実が捏造され、繰り返し語られることによって「事実」になったこともある。括弧つき事実というのは、客観的歴史的な事実ではなく、ある人間によって事実であって欲しいと考えられる事実であるという意味である。
 事実とされている物自体が胡散臭さから自由ではない、と言ってもよいのかもしれない。人間は感情や好き嫌いを生まれつき持つために、どれほど冷静になろう、客観的になろう、公平になろうとしても、事実把握についても、仮令微量なものであったとしても、意図が入ってしまうだろう。どんなに小さな意図であっても、それは長い目で見ると思わぬところに想定外の影響を及ぼしてしまう可能性がある。
20170122DSCN3224.JPG 想定外であるからこそ、事実は面白く、否、面白くないばかりかおぞましい、恐ろしいことの方が多いかもしれないが、人類の想定の枠を少しずつ拡大してゆくことができるのだ。
 左の絵は、今年の1月22日に、日本や世界の政治や社会にあまりに多くの胡散臭さを毎日のように感じ、寓意的な絵を書いてみたいと思い、下書きとして描いたものである。仮題は『これは何と言う食べ物でしょうか・・・』
 ここにいる三匹は、何度も登場する予定である。以前公開した『謀議』と言う絵と同じような主題、思い、感想なのだ。
 誰を信ずるか。誰ではなく事実を信じる。そして、基本的には、私は弱者の側に立つことにしている。なんとなれば、弱者は一般的に権力によって曲げられた事実を受け入れさせられたり、不利益を強要される傾向が強いからだ。
 そして、民主主義の最も重要な部分は、弱者の権利(発言権、所有権、安心できる、衛生的文化的生活権等々)、自由の保障にあると信じている。選挙が行われていれば民主主義が機能していると主張する人々もいるようだが、形だけの選挙であれば、どの国でも実施している。また、英雄を望む人々もいるが、私は人間の能力には大差がないと思っているので、一番手でなくとも、二番手でも三番手でも機会があれば活躍できるはずである。代わりがいない(そのようなことなないのだが)からと言って現状を維持し支持することが最も無責任だと考える人間でもある。


nice!(24)  コメント(4)  トラックバック(0) 
共通テーマ:アート

嬉しいニュース:でかした、栗の里の愉快な女房殿! [日記・雑感]

Mention spéciale du Jury International


Hiromi Hakogi dans Her Mother de Sato Yoshinori (Japon)

 佐藤慶紀監督作品『Her Mother』がフランス東部の小さな町Vesoulで開催される第23回ヴズール国際アジア映画祭(Palmarès du 23ème Festival International des Cinémas d'Asie de Vesoul) に春本雄二郎監督『かぞくへ』が、コンペティション部門に招待出品されたそうである。その審査発表があり、映画は受賞は逃したものの、審査員から202000年正月に物す その1.JPG年の歴史で出したことがないと言うMention specialeを気になるあの女優に出そうと言うことになった。それがなんと、殺人犯の母親役を演じた栗の里の愉快な女房殿であった、という知らせが2月15日にフランスにいた監督から彼女のスマホにメールが届いた。なんかの間違いでしょう?と、監督に確認しながらも、後で送られてきた添付写真を見て大喜び。
 この国際映画祭の審査委員長はイランの女性監督Rakhshan Bani-Etemadと言う方だが、彼女が強く推薦した結果この賞を受賞することになったそうである。韓国での上映の際にも審査員の一人が褒めてくれたらしいので、きっと印象的な演技だったのだろうと思うけれど、まだ見ていないので何も言えない。
 まあ、どれくらい目出度いのか分からないけれど、めでたさも中位なり、おらが春、でも何でもいいのだ。目出度いものは目出度い。きっと、未来が大きく開ける、かもね、などと言って盛り上がっている。

予告編のurlは下記の通り。ビデオの後半にしょぼくれた顔をして写っています。
https://www.youtube.com/watch?v=gbIHbsobeWE

参考:
https://twitter.com/FICAVesoul


nice!(39)  コメント(10)  トラックバック(0) 
共通テーマ:アート

2016-12-3ダリ展を国立新美術館へ観に行く [日記・雑感]

 20161203satDSCN3147.JPG昨日は、気になっていたダリ展を国立新美術館へ見に行った。当初の予定では先週だったのだが、体調が今ひとつよくないので無理をせずに、一週間遅らせたのだった。しかし、新日曜美術館で紹介されていたので嫌な予感がしたが、違わず、大変な人出だった。天気予報も土曜日は行楽日和になり翌日日曜日は雨模様になるだろうという予想をしていたので、その影響もあったのではないか。60分待ちという掲示もあったが、今更引き返すのも悔しいと思い、入場券を買ってからは小腸のように曲がりくねった列の中で、ひたすら入場できるのを待った。
 感想としては、自分が好きな作品は展示していなかったので、満足度は高くない。それでも、ダリらしい作品もあったので、そこそこ楽しむことができた。若き日のキュビスム時代の作品は、ダリらしさはなく、やはりシュルレアリスムの時代になってダリらしさが花開く。
 戦後には『ビキニの三つのスフィンクス』という三つの後頭部が遠近で並んだ絵があるが、原子爆弾、水素爆弾、あるいは中間子など、二十世紀最先端の科学や技術が齎した技術や発見には敏感だった様子だ。
 左の絵はチラシの印刷の写真を撮ったものだが、『謎めいた要素のある風景』(1934年)で、30歳の頃の作品。とてもダリらしく、色彩も構図も魅力的だ。
 短編映画『アンダルシアの犬』も上映されていたので、観る。眼球や蟻の場面が衝撃的だが、最後の砂に埋まる男女が象徴的でとても好きだ。
 『黄金時代』も上映していたが、63分なので、止めた。
 2003年に発表されたウォルト・ディズニーパリ・スタジオが作った『デスティノDestino』(6分)は短いので観た。この作品は既にfacebookでも紹介されていたので観たことがあったが、改めてより大きな画面で観て感動を新たにした。Walt DisneyとSalvador Daliの共同制作として1945年に着想され、経済的な理由から58年間お蔵入りになっていたものを、1999年に"Fantasia 2000"を制作中のWaltの甥Roy Disneyが再発見して完成することにして出来上がった作品である。ダリの絵画が随所に引用されている。楽しく、幻想的で、超現実主義的なアニメーションである。ここに紹介してある絵に似ている色彩、構図も出てくる。
 ダリについては、その題名がとてもシュルレアリストの詩人風だと思う。『海の皮膚を引き上げるヘラクレスがクピドをめざめさせようとしているヴィーナスにもう少し待って欲しいと頼む』(1963)、『チェロに残酷な攻撃を加えるベッドと二つのないとテーブル』(1983)。そういうところがとても個性的で、魅力的である。
20161203DSCN3146.JPG 

 ところで、左のもう一枚の絵は、昨日朝手遊びに描いた絵。長らく使わないで放ってあるボールペンのインキを固まってしまう前に少しでも使おうとおもって線を引く。少し、浮世絵を意識し、北斎も意識し赤富士を入れてみる。特に題名はないが、あえてつければ『知らざあ言って聞かせやしょう、あたいの名前はお富さん或いは赤富士と後姿の時雨れてゆく黒猫』


nice!(45)  コメント(8)  トラックバック(0) 
共通テーマ:アート

Paul Delvauxポール・デルヴォー版画展 [日記・雑感]

yoshizawa garden galleryDSCN3129.JPG 今日は市川市真間5-1-18にある芳澤ガーデンギャラリーへ『ポール・デルヴォー版画展』を観に行く。ここで展覧会が開かれることは7月頃に国府台駅改札にあるチラシで知っていて、ずっと楽しみにしていた。ボール・デルボーは油絵の展覧会が催された時に、時機を逸して見損なって暫く後悔していたのだった。チラシに載っていた『庭』がとてもデルヴォーらしくて、原物も見てみたかった。
 京成線の国府台駅を下りて、和洋女子大学の方へ歩く。手前の歩道橋を右折。すると右手に木内ギャラリーの表示がある。更に千葉商科大学に平行している細い道を進んでゆくと右側に真間山弘法寺(ぐほうじ)がある。この寺はもともと開祖は行基だと言う。求法寺と言う表記だったものが弘法寺に後年なる。弘法寺は紅葉狩りが有名らしい。手児奈(てこな)と言う国造の娘の物語が有名な土地であることも帰宅後wikipediaで調べ分かる。上田秋成の『雨月物語』中『浅茅が宿』も下総葛飾真間の手児奈の伝説を下敷きにしていると言う。調べているうちに、とても素晴らしい場所に今日は来ていたことが分かり嬉しくなる。
 緑の多い住宅街の中に芳澤ギャラリーはあった。美しい場所に、美しい建物の画廊であった。
 P . DelvauxDSCN3145.JPG訪問する客も少なく、静かな空間と時間をゆっくり楽しむことができた。『ペン画物語』を書くに当って、少しは版画やエッチングのことも知っておこうと考えていたが、それとは全く関係なく、有意義な時間を過ごすことができた。デルヴォーにとって鏡、海が特別な意味を持っていたことも分かった。彼は鉄だったようだ。
 『海岸』と言う作品は、何故かボッチチェリの『ビーナスの誕生』を思い出させた。つまり、デルヴォーの海への憧れが、あのボッチチェリの海とアコヤ貝の描写が共通しているように見えた。
 左の絵は『ささやき』絹織物。デルヴォーの女性。彼は女性の裸体を沢山登場させているが、全くいやらしさは感じず、ギリシャ彫刻の石膏像でも見ているような感じがする。それは彼が女性を美しいものとしては見ているが、官能的な完成では捉えていないからではないかという気がする。
 デルヴォーの絵はシュルレアリスムの手法があり、遠近法や多消点が使われているのが面白い。彼は、どのような派閥にも属さず、彼自身の好きな世界を描き続けたようである。P. DelvauxDSCN3142.JPG芸術家としては、一つの理想的な生き方をした人間ではないかと感じた。左にある『庭』の絵、少しルネ・マグリットにも通じる世界がるが、やはりこれは間違いなくデルヴォーである。その絵を見て、直ぐに作家が分かると言うことは作家にとって非常に重要な点だと思う。誰が描いか分からない作品を描いても、空しい。「これは間違いなく彼の絵だね。特徴があるもの。」とか言って欲しいのだ。言われなければまだ作風が確立していない証拠である。
 デルヴォーの版画で面白かったのは「クロード・スパーク『鏡の国』のための連作」作品群である。そんなに古い作家ではないのに、その挿絵は19世紀を髣髴させる。若くして死んだ妻を剥製にし、剥製が変化した時ナイフでばらばらに壊してしまう男の物語が暗示的で、読んでみたいと。こういう挿絵はとても魅力的だと思った。残念ながら、クロード・スパークとは仲たがいしたため、挿絵としては一緒には発表されなったようだ

 超現実主義、ポールデルヴォーに興味のある方には断然お薦めの展覧会である。11月27日(日)まで実施している。
 このギャラリーの手前には木内ギャラリーがある。こちらは旧木内家別邸である。大きな樹木に囲まれて立っている。今日P DelvauxDSCN3144.JPGは、残念ながら16:30を過ぎていたので中にはいることは出来なかったが貴族議員も勤めた木内氏の立派な建物を再建したものだそうだ。我が家は川崎市麻生区であるが、市川市のこのギャラリーまで行くのにまるまる2時間掛かった。もう少し近ければ都思うが、遠いからいいのかもしれないとも思う。
 左のえは『ダンス』と言う絵だったと思う。この絵でも女性は裸である少しもエロティシズムを感じない。

 


nice!(53)  コメント(9)  トラックバック(0) 
共通テーマ:アート

小説『審判』の為の挿絵 [日記・雑感]

 Kannaさんが、そのお友達の誕生日の贈り物として作成したポップアップアート(飛び出す絵本)がありました。ドールハウスのようで、いかにも女性らしく、遊びも楽しさも伝わってくる明るい作品です。その中に、何故か、蟷螂が2匹いました。それについて私が自分の描いた絵を思い出したとコメントを書いておいたら、どんな蟷螂が見たいという返事が書いてありました。そこでその絵の一部をここに紹介しておこうと考えました。
DSCN3125.JPG その作品とは、こちら(左の絵)です。この絵はもともと詩『審判』と言う作品の挿絵の一枚として描いています。裁判所に於ける一場面です。
 10月に入ってから、この詩『審判』を小説にして、とある出版社公募に応募しようと計画を立てました。自費出版もいいけれど、同時に、第三者の評価も問うた方がいいだろうと。栗の里の愉快な女房殿も、今回はどんどん送っちゃえ、と私に発破を掛け、勇気と力を与えてくれています。涙がでるほど有難いですねぇ、こういうのは。(泣いていませんが。)それで、毎日数ページずつ、この詩を元に小説に仕上げてゆきました。本日めでたく完成したので、明日郵便局から発送する予定です。公開した物は応募不可となっているので、こちらでは紹介できませんが。自分としては、最善を尽くしているので、結果はどうなっても構わないと思っています。勿論、評価されることを希望しないわけはありませんが。
 これからは、あちこちにどんどん応募しよう、原稿を送って評価してもらおうと思います。

 Kannaさんへ:こちらが私の描いた蟷螂です。腹が大きいので、多分雌の蟷螂です。裁かれる私を、傍聴席から見ている場面です。隣にいるのは蠍です。Kannaさんの絵にも、スーパーのような場所にビーバーのような動物がぽつんと立っているのがありましたね。
nice!(45)  コメント(8)  トラックバック(0) 
共通テーマ:アート

キリコ風 その3 [日記・雑感]

 少しもキリコ風ではないかもしれないが、キリコを思いながら描いていたのでキリコ風と名づける。
 新宿駅西口から徒歩3分ほどの場所、西新宿に「ばんやき ぼるが」と言う店がある。旧青梅街道と新青梅街道の間の細い20161002DSCN3117.JPG通りに面している。職場が直ぐ近くだった時、毎日その店の横を通り出勤する。煉瓦の塀があり、一部苔むしていている。交差する角に位置していて、その角が開口部になっている。そこには囲炉裏のようになっていて、夕方店が開くと、モツなどを焼いているのが見える。煙が外に漂うように、設計されているようだ。中に入ったことはないが、雰囲気のある店で、ロシア文学、ボルシェビキ、コサック、ロシア民謡、チェーホフ、ドストエフスキー、カチューシャ・・・などロシアに関する言葉を連想する。肉を食べないので、行ったことがなかったが、店内がどうなっているのか興味津津である。あるブログ記事によると、寺山修司、山田洋次監督、高田純次なども訪れていたそうだ。
 ちなみに、新青梅街道に面して、栃木屋という店が昔は「取ってきて食はせるやまくじら 栃木屋」(逃げる猪の絵と猟銃で狙っているハンターの絵付き)という広告を小田急線の車内出していた。小学校の時この「食はせる」が正しく読めなかったので「たべはせる」とよみ、「たべはせる」とはどういう食べ方なのだろうと疑問に思っていた。30年以上前にこの店の前を歩いていた時、猪が吊り下げられていたのを見てぎょっとしたことがある。今はその店はなく、栃木ビルと言う建物になっている。ビルの入居者を表示する金属板には「栃木屋」と言う文字が、インキをはがされてはいるがしっかりと読み取れる。この証拠がなければ、自分の思い違い、記憶違いで終わっていたかもしれない。
 「キリコ風その3」の左の煉瓦は、ばんやきぼるがの塀も思い出しながら描いた。私は、人のいない波止場や海辺の風景が好きだ。それでも無機的なものだけしかないのは苦手。
nice!(35)  コメント(6)  トラックバック(0) 
共通テーマ:アート

キリコ風 その2 [日記・雑感]

20161002DSCN3116.JPG その実、少しもキリコではないのにもかかわらず、何となくキリコ。そんなことをしているうちに、新しさがでてくるのだろうと思っている能天気な人間。何事もまずはまねびから、などと。

 キュビスムで共同制作をしていた時代のピカソとブラックは区別が付かない作品があるが、区別が付かないというのは個性が必要になる芸術家にとっては致命的だ。共同制作とは言うものの、お互い、焦ったのではないか。「これー、パブロの作品でしょう?」とか「これは、ジョルジュさんのですよね?」などと言われた時の空しさ。ピカソが「いや、これはもともと俺が最初に考えて描いた画法だ!」と怒鳴ってみても、共同制作で作家の区別できなくなってしまったら。
 芸術に公式は禁物だろう。公式と言うものはあくまで技術を身につけるための手段ではないのか。オリジナル作品に公式を使った段階で、オリジナリティーが損なわれるのではないか、部分的に、あるいは全面的に、オリジナリティーが失われるのではないか。(一部公式を使えば、オマージュになるかもしれないが。)皆で作るもの、誰でもができるもの、作りうるものは芸術作品ではない、とは必ずしも言えないが、新しい一流派を形成することはないだろう。公式が弟子に伝授された時に、弟子は別の要素を追加しない限りオリジナルではなく、亜流になってしまうだろう。
 群馬県板倉東洋大前と言う駅に何度か行ったことがあるが、駅前の空間にトタン板を貼り付けたパネルがずらりと並んだ塀があった。そこには 一見するとホアン・ミロ風の絵が描かれていた。ミロの絵を写したものかと思いきや、そうではなく、あくまでもミロ風。塀をキャンバスに見立てた場合そこに生まれる、丸や四角や三角などの形や動物が何も描かれていない空間がある。ただの空間になっていて、そこにはミロが楽しみながら(苦しみながら?)描いて作った遊びや緊張がない。水墨画にあるような、必要にして十分な余白、空白、空間ではない。あくまでもミロ風、模倣なのだ。こういう手法は、その基本的な考え方が量販店、フランチャイズ店舗にも共通しているのかもしれない。そこそこの品質を提供する、が、本物に近いが、本物ではない。最近では、本物の専門店がどれだけあるのやら。料理でも衣料でも、最も良いとされているものをその道の専門家達が分析して、再構成して公式を作り出し、誰でもが同じことをすることができるように指南書を書く、販売する、研修する、商品化する、こういう流れが出来上がっている。それまでより多くの消費者が期待でき、販路を拡大でき、そうすると儲かるからである。量産化によって、その物自体の存在は広がり、裾野は広がるのだが、そのものに対する認識、理解、把握など根本的なものは薄められてしまう危険もあるのかもしれない。薄っぺらな民主主義、平和、教育、文化等々の言葉が氾濫することにもなりかねない。 

 


nice!(28)  コメント(4)  トラックバック(0) 
共通テーマ:アート

出版計画 変更 [日記・雑感]

 残念ながら、出版計画は当初の予定を大幅に変更することになった。N氏は完璧を期する人間である。だから、今回の作品は彼は自分について書かれた部分は自分の気の済むように変更したい、しかし私にそのような変更を求めるほどの「神経はない」ので、彼について書いた文章は私の他の作品に入れ替えて欲しい、と書いて寄こしたのだった。その手紙が今日届いた。私は何度も電話を掛けるが、彼はいっかな出ようとしない。多分いるのだろうと思う。1998年の時と同じである。
 20160525DSCN3112.JPG実は、このようになるかもしれないという予兆はあったのだった。5月下旬に、私の元に、彼から手紙が送られてきた。書かれていることは非常にまともで、私は自分の過去の言動に恥じ入るばかりであった。正直にそれを詫びる手紙を書いて、彼から許してもらったと思っていたのだが。
 結局、私は彼に依存していたのだった。しかし、もう依存できない。自分自身で信じることを最後まで貫くばかりだ。それ以外に道は、方法は残っていない。
 今日の絵は、5月25日頃彼と電話で話し、妙な違和感を感じて描いた。その後彼からの手紙が届いた。感じたのは埋めることの出来ない溝であった。幾ら手を振っても答えない。勢いをつけて跳べば跳び越して向こう側へゆくことが出来るのかもしれないが、それをする勇気(勇気なのか、情熱なのか、嗜好なのか)もない。そして、彼からの手紙の衝撃が大きく、この絵は5月頃に公表しそうになった。しかし、そうしないで、なんとかこの溝を埋めようと努めた。彼には、しっかりと詫びて、どれだけ私が彼を必要としているかを訴えた。それによって、関係は修復できたはずだった。そして、この溝に橋を架けて完成とするつもりでいたが、ずっと放置していた。そうしたら、橋は結局架けることができないままで終わってしまったのだった。
 さあ、私は今日から仕切りなおして、出版の第二弾を練り直すことにしよう。
nice!(39)  コメント(8)  トラックバック(0) 
共通テーマ:アート

原稿『神聖木曜日』他のこと [日記・雑感]

 このところ、自費出版の第二弾のために、原稿を推敲している。推敲しているのは私ではなく、N氏である。どういうことかと言うと、私が書いた文章について、事実かどうか彼が一つずつ確認して不正確な部分については訂正を求めてきているのだ。その指示に従って、私は打ち直し、原稿を印刷し彼に送る。しかし、この原稿は二十年以上前に書いたもので、彼も一度は読んでいて承知している作品なのだ。が、いざ、出版となると、彼は事実に拘っている。これは作品を仕上げるための喧嘩なのだ、と彼は予め手紙で書いて来た。私は正直、最初は面倒だと思った。腹も立った。一部には虚構も入っているが、これは私の作品だから訂正を求めないで欲しい、と言って突き放してしまう考えもあったのだ。が、虚構よりも事実の方が、どんなに些細な事実であっても遥かに面白く、説得力がある。他者の考えを私が代弁しても、おのずから限界があり、文章を俯瞰的に眺めるとどこかで矛盾が生じているはずなのだ。一方、書かれている本人がそれを読めば、自分の考えはそうではない、そのような言葉は使わないはずだ、そのような行動はとらない、等々、細部にわたって本人にしか語ることの出来ない事実を補足することができるのだ。今回はその典型的な例になっている。一応の最終稿を、明日には発送しようと思っている。(このインターネットの時代に、彼とは手紙および電話でのやり取りなのである。彼は、PCも持っていない。携帯電話やスマートフォンを持っているかどうか、尋ねたこともないが・・・)大変よい経験になっていることは間違いない。
 ちなみに、彼が二十年位前から書いていた劇団時代の短期アルバイトの思い出を、当初私は引用するつもりだったが、本文に関係しているようでありながら、事実関係を知らない人間が読んだ場合にはよく分からないと言う理由で削除した。十ページほどの引用だった。そのことは彼の気分を害していたのかもしれなかった。しかしながら、自分の知らない人間の、自分には興味の無いような事実の羅列を見せられることは誰も期待しないだろう。従妹に原稿のこの部分を読んでもらったら、よく分からないし、本文には入れないほうがよい、と言う率直な意見をくれた。私も、正直なところ付け足しながら、木に竹を接ぐような印象があったので、そのように彼に言ったあとばっさりと削除したのだった。
sunman 216-09-04 sundayDSCN3111.JPG 今日の絵は、二年前2014年にある程度描き、一昨年、昨年少し手をいれ、気に入らず、結局今回のような絵にしたのが、今年の最初のほうだったろうと思う。今日久々に画帳を開けてみて、この甲虫のような生き物が愉快だったので、公開する事に。題名は『元気な太陽君』。別段異常気象が続くからこのような絵になったわけでは全くないので、この太陽と現実の太陽とは関係がない。久々にB4判の画帳をめくっていたら、この絵が出てきて、その時には面白さを感じなかったのに、今日は愉快な気分になってので、このブログの絵に使うことにしたのだ。まるで正義の味方、ヒーローのようにさえ見えるではないか。
 完成ができない絵は何枚もある。こればかりはその気にならないとできない。
 ところで、先日電車のなかで変な生き物の絵を描いた。煙突のついているような生き物など。


nice!(36)  コメント(6)  トラックバック(0) 
共通テーマ:アート

『第15回 風景を描くペン画展』へ行く [日記・雑感]

 異次元の道20160611土曜日DSCN3080.JPG今日は、国立のコートギャラリー国立で開催中の『第15回 風景を描くペン画展』へ行って来る。JR中央線国立駅南側で、線路沿いの通りに面している、便利でお洒落な画廊。しかも、地上1階なので、通行人も中の様子を見ることが出来る。画廊は手前と奥に2箇所あり、今回の展覧会は手前の会場。
 ガラス扉は開いていて、中に人々が7人位いた。モロさんが講師を勤めるカルチャーセンターの教室の人々は、多くが定年退職した方のようで、平均年齢は高く、若い人の姿は見当たらない。入ってすぐ右側の壁に、モロさんの『異次元への道』が展示してある。想像していたよりもはるかに大きな作品だった。25号(80cmX60cm位)はあったと思う。葉書に載っていた写真では、どの程度描きこみしてあるかが分からなかったので、どの位描くと柔らかさや厚みがでるのか、原物をみて確認できた。
 順番に受講生の作品も見て行く。素晴らしい技術を持っていて、既に画家として通用する作品もある。銀杏の樹皮を見事に一定のリズムで描いて再現している絵もある。感心しながら見ていると、突然「こんにちは!」と横の女性に声を掛けられる。誰だろうと思ったら従妹のAっちゃんだった。私が今纏めている出版第二弾の原稿(『師岡正典氏の略伝』、『神聖木曜日』、詩『審判』)を読んでもらったら、モロさんのことを只ならぬ人だという感想をくれた従妹である。異次元の道DSCN3081.JPG今回の展覧会を知らせると、モロさんに会ってみたいとのこと。彼女は夕方から知人の合唱をオペラシティに聴きに行く前に、来てくれたのだった。もしかすると、時間の調整ができないかもしれないと言っていたので、会えないかもしれないと思っていたのに、殆ど同じ時間に到着していた。彼女は10分くらい前に着いていた。
 早速モロさんを紹介しようと、道路側のテーブルに坐っていた二人の男性に「済みません、師岡さんはいらっしゃいますか?」と尋ねる。「今、控え室で弁当を食べていますね。」と言うので「ああ、そうですか。それでは、暫く待っています。」と言って、再び絵を見始める。
 モロさんは、自分のペン画は彩色をしないことにしているが、色を塗りたがる人もいるので、彩色も教えている。
 彩色された作品の中に、詳細まで描かれていないという点では完成度は高くないが、味の或る、挿絵として十分に通用する絵もあった。
 一寸してから、モロさんが出てきてくれたので、慌てて絵を見ていたAっちゃんを呼んで、紹介する。「あら。普通の人ですねぇ。」と笑っている。「俺は、普通だよぅ。」とモロさん。私がモロさんの変わっていると思われる部分も誇張して描いているので、従妹ももっと怪しい人物を想像していたのかもしれな異次元の道DSCN3082.JPGい。モロさんは、自分の絵の所へくると「ここの部分が現実で」と樹の枝が横に伸びて楕円形の明るめの空間を指した。「この建物の中で人の声や笑い声が聞こえたりすんの。」左側の暗い建物の部分を指して「ここの部分が非現実なの。」「で、何か物語とかはないんですか?」と私が尋ねると「そんなもん、ない。こんで終わり。」とにやにやしながら言う。私としては、モロさんの特異性、特徴があることを大いに期待してそう質問したのだが、質問はここでばっさりと切り捨てられる。いかにも、モロさんらしい。
 今日、この展覧会へ行ったのは勿論、この『異次元への道』を見ることだったが、もう一つの目的があった。それは、モロさんが『ペン画物語』と言うものを構想していて、その文章を私に書いて欲しい、ついては今日話したい、とメールで書いていたので、モロさんの計画について具体的に知ることだった。結論としては、企画出版(商業出版)にならない場合には、この話は、話だけになるとのことである。モロさんが『ペン画物語』の案を出版社に持ち込んで、採用してくれるよう掛け合うという流れである。
 『ペン画物語』について、思いつくままにあれこれ話していたが、受講者の人々の簡単なペン画歴について述べ、その中心として『師岡正典氏の略伝』があればよいかもしれない、と言う案はそこそこ現実的のように思われる。
 最終的に、今日の段階では案がはっきりしないので、『ペン画物語』の全的的な構想をもう一度頭を捻って考え、案をモロさんに送ると約束をして別れた。

※上記展覧会は来週6/14の火曜日まで開催中。
nice!(62)  コメント(5)  トラックバック(0) 
共通テーマ:アート
前の10件 | - 日記・雑感 ブログトップ
メッセージを送る