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E.T.先生のこと-高校時代の英語の先生 [回想]

in 80 days no.1.JPG 私は子供の頃から知りたいものは山ほどあったが、いわゆる学校の勉強は好きではなかった。だからいつも沈香も焚かず屁もひらず、と言う状態だった。それでも余り焦った記憶はない。なぜなら、勉強ができると言うことは、運動が得意であること、美人に生まれることと同様、生まれつきのものだと思っていたからである。勉強して成績がよくなることなど馬鹿らしい、勉強などしなくとも出来るのが恰好いい、と勝手に思い込んでいた。勉強などできなくともいいではないか、自分には向いていないのだから、と。実際は必死になって勉強している人間が結構多いにも拘らずである。

 こんな考えを正してくれる人もおらず、好きなことを好きな時にやっている、それが私の生き方の基本であるような気がする。

 英語について、私は大いに興味を持っていた。NHKで放送されていた『ひょっこりひょうたん島』に出てくるドン・ガバチョのように、外国語がいくつも喋れるなんて、何と素敵なことだろう、と。だから、中学校一年生になった時、英語はそれなりに勉強し、そこそこの成績だった。先生が元日本航空の客室乗務員だったことも少しだけ影響していたかもしれない。二年生になった時、私は英単語帳を作り始めた。一学期のことだったろうか、それを見つけた同級生が「おい、がり勉!」と言った。その日から私は英語の予習復習をしなくなった。結果、どんどん理解が遠のいてゆくようになった。高校受験の時も、英語が大変な恐怖の科目になった。そして、恐らく低空飛行しながら、何とか都立高校に入学することができた。

 in 80 days no. 4.JPG高校に入ってからが大変だった。中学校とは異なり、随分教科書が難しくなったからである。予習をしておくようにと文法の江戸っ子のH先生に言われて辞書を引く。(H先生は朝日新聞をアサシヒンブンと発音したとか、次姉が言っていた。姉も同じ私と高校である。)ところがちっとも意味が分からない。動詞なのか、名詞なのか、どれが当てはまるか分からない。私には動詞、名詞の明確な概念がなかった。持っていたのはS叔母さんに頂いた三省堂のコンサイス英和辞典。今の私ならば、この辞典は難しすぎるから薦めない。当時は今のように英語に関する書物が氾濫している時代と異なり、本の種類が限られていた。初心者向けの辞書はあったのだろうか、それすら知らない。

 さぼっているとどのようになるかという典型であった。予習はできないし、授業中は少しも進歩を感じない。試験があると、分かっていないから落第点手前の成績になる。英語の授業が恐ろしかった。

 この私の英語に対する劣等感、敗北意識から抜け出すきっかけを作って下さったのが一年生の時に英語のリーダークラスを担当されたE.T.先生であった。先生はまず、発音記号が読めなければ辞書を引いても単語を読めないというお考えで、私たちに短い英文を発音記号だけで書いたわら半紙を配る。そしてそれを何度も読ませるという指導であった。お蔭様で、私は発音記号を理解できるようになった。

 夏休みの宿題はOxford English Picture ReadersGrade Twoから“AROUND THE WORLD IN EIGHTY DAYS”一冊を読み、単語帳を作成し、感想文と一緒に提出することであった。この本は正味で百十六ページある。リーダーの授業で使用していたのが同じシリーズの“JANE EYRE”で、一年間の授業で八十四ページまでしか終わらなかった。その百十六ページを四十日間の夏休みに読みなさいと言われた。(先生は、藁半紙に、人名の発音記号を書いて渡して下さった。特にPassepartoutはフランス人であるから、英語読みをすると不自然な音になることも考慮されたのだと思う。)

私は最初の十日間は全く勉強しなかったが、残り三十日間はこの宿題を終える計画を立てた。一日四ページ読まなければならない。英語の全く出来なかった私は、分からないなりに兎に角何度も音読しながら意味をとるようにした。単語帳も指示通り作成した。英単語左側に書いて、日本語の意味を右側に書く。勿論、物語に関係の無い意味もである。単語帳は後で見返してみると、同じ単語が新出単語として数回登場していることもあった。作った単語帳はどこかにあるのだが、今日の時点ではみつかっていない。references, detective, safe, warrant, howdah, procession, port of call, quayなどの単語がNotesに出ているが、どれも懐かしい単語である。「references照会」などと言われても、高校一年生には理解できない。そのような必要も経験もないので、それがどのようなものか想像ができない。感想文も英語で書いた。文法的にも間違いだらけの酷い感想文である。

in 80 days no.2.JPG結局、私はその自分にとっては大変な課題をやり通した。一冊の英語の本を独力で読み通したと言う満足感、達成感、やれば自分もそれなりに出来ると言う自信など、いろいろなものが得られたと思う。そして、間違いなく英語の苦手意識を克服することができたのである。その宿題を出した生徒がどれだけいたのか、私は知らないがあまりいなかった、あるいは読み通してはいないらしかった。その宿題は提出後、赤ペンと確認の署名か印鑑付きで返却された。

これに関連して思い出すのは高校三年生の時にHIGHROAD TO ENGLISH READING COURSE(三省堂)で読んだRichard Wright”Black Boy”の一文である。メンフィスに住んでいたリチャード少年は、母親に買い物に行くように言われる。雑貨店に向かうと、少年ギャングたちがいて、リチャードを殴って金を奪う。泣きながら帰ってくるが、母はそれでも買いに行かせる。また同じ目にあう。また、泣き戻る。三度目には母は棍棒と金を渡し、買って帰って来なかったら家に入れない、と宣言する。少年は絶望的な、固い決意をして出掛けてゆく。ギャングが「ほら、あいつが来たぜ!」と寄ってくる。少年は棍棒を無我夢中で振り回る。頭蓋骨に当たり手ごたえがあるほど力任せに。襲って来ないので、かかって来いと挑発してみる。来ないから少年から追いかける。ギャングの親たちが通りへ出てきて少年を脅す。少年は人生で初めて大人たちに叫び返す。こうして、彼はメンフィスを自由に歩く権利を確保したのだった。(多分大学3年生になった時、岩波文庫で『ブラックボーイ』を読んだ。)

尚、E.T.先生は現在、大学で非常勤講師として教えていらっしゃいます。日本モーム協会会誌にも投稿されたりしておいでです。

 E.T.先生に感謝を込めて。 201173日日曜日


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吉江俊夫伯父の思い出 その3 [回想]

2010-5-16日曜日

吉江俊夫伯父の思い出 その3

 伯父のことは、それほど知っている訳ではないので多くを語ることができないのが残念である。そのため伯父に関係のある人々の話になってしまう。

伯父の妻の父親は正木不如丘(俊二)であったが、この人物が有名だったらしいと聞いていた私は、若者に特有の反発を覚え、敢てその人を知ろうとしなかった。従兄弟が不如丘の作品がテレビで放送されると言っていた時も、全く関心がなかった。そんなものどうでもいいではないか、と言う反応をしたのである。私と言う人間は、兎に角へそ曲りなのである。しかしながら、今回は葬儀の始まるのを待っている時に伯母と伯父の話を少しだけしていて、この品の良い伯母の父親に対して大いに興味を持つことになった。

早速私は、正木不如丘の作品を図書館から二冊借りてきた。一冊は『思はれ人(結核医の手記)』(一九五四年)、もう一冊は大衆文学体系10(田中貢太郎・正木不如丘)である。『思はれ人』は、医師として働きながら随筆を書いた俊夫伯父の『小河内日記』や『折りに摘む』に共通するものがあるだろうと思って借りた。後者は二段組で七百頁もある本だが、最初の六百頁は田中貢太郎の長編小説である。当然ながら最初の六百頁は全く読まなかった。不如丘の作品は5つ入っていたが、その内の『木賊の秋』『三十前』『行路難』の三作品を読んだ。興味を抱いた部分のみ書いておくことにする。

『思はれ人』には有名人では竹久夢二、呉清源、徳富蘆花のことが出てくる。富士見療養所に患者としてやってきた人々の思い出が先の二人である。竹下夢二はやはり病的なところのある人物だったようである。呉清源は藤沢九段と名勝負をした福建省出身の棋士である。調べていたら、この藤沢九段は藤沢庫之助(朋斎)(1919-1993)であり、二〇〇九年五月に亡くなった棋士藤沢秀行(1925-2009)の甥であることが分かった。昔は兄弟が多かったから、甥の方が自分よりも年上であることもある訳である。一九四〇年に結核で療養所にきた時の思い出が綴られている。徳富蘆花の主治医だったために、面白い挿話を紹介している。ベストセラーとなった『不如帰』はフジョキと蘆花家では呼ぶ慣わしになっていたそうである。

 「ふじよきはね、いやほととぎすか、あれは気に食わんので、ふじよき、つまり出直せの意味でうちではふじよきという事にしたんじゃ。」翁がこう云った時、夫人は心の底からうれしそうであった。(p163 

この結核医の手記は、作者の思い出が書かれているのであるが、当時の時代も描かれていて非常に興味深い作品であった。伯父の随筆集も同様に時代を反映しているので、それが面白い。

tokusa 2010-5-16 sunday.JPG『木賊の秋』は不如丘が富士見高原の療養所で芝居にして上演したこともある作品である。物語の初めに、これは悲しい物語である、と書かれているので、どんなに悲しい物語なのだろうかと読むのを躊躇った。しかし、読み進んでゆく内に、私は不如丘は生来楽観的な人間であると強く感じた。地主だった家が、小作にまでなってしまい、父は木賊を刈るのを怠った為に村を出てゆかざるを得なくなり、残された兄と妹が狭苦しい家に住んでやっとの生活をしている。兄は結核を患い、満足に野良仕事もできない。しかし、妹には良い婿さんが来そうである詩、最終的には明るいものを予感させる物語なのである。

『三十前』は不如丘流の『坊ちゃん』である。福島県での副院長をした経験を元に書いているようであり、いろいろな事件が起こる。痛快である。しかし、である。痛快すぎるのである。不如丘は東京大学の医学部を優秀な成績で卒業したエリートだったためか、どうも物語の展開が上手くまとまり過ぎている観が否めない。

『行路難』も、『三十前』の続きのような、無手勝流の医師の話である。これも結構痛快である。これらの物語が書かれたのが一九二三年のことで、大正デモクラシーの時代でもあり、治安維持法の制定される前の日本の世相が見られる。米騒動やロシア革命の影響などである。

さて、不如丘の本はこの位にしておいて、伯父の話しに戻らねばならない。このような義父を持つことになれば、その影響を受けぬことはないであろう。富士見高原療養所の初代院長だった不如丘の病院で、最終的には副院長になった伯父は、噂によれば、千葉大学医学部で一、二番目の成績だったと聞いたことがある。伯父は鶏の癌の研究で博士号も取っており、大学に残ると言う話もあったそうである。が、生活の方が優先されて、富士見高原療養所に勤務したらしい、と母から聞いている。

伯父は絵も好きだったらしいのだが、画家の弟からあれこれと批評されてしまうので、俳句をもう一つの生甲斐にしたようである。俳号は十志である。

私は芭蕉の紀行文が好きであるが、それは文章の中に俳句が鏤められているところも、その大きな魅力である。伯父も随筆に俳句を入れておいてくれたらもっと楽しい作品になっただろうにと、少し惜しまれる。

 *身内の人々へのお願い。もし、伯父の情報について誤った事実があった場合には、直ぐにお知らせ下さい。
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吉江俊夫伯父の思い出 その2 [回想]

2010322日(月)

吉江俊夫伯父の思い出 その2 

 新二伯父と私は硝子戸の多い建物に入る。受付には俊夫伯父の長男、次男である従兄弟達がいた。長男のHさんと三男のAさんには数十年ぶりに会う。私がまだ中学生だった頃会って以来である。

待合室には会葬者たちが徐々に集まって来ていた。ここで私は俊夫伯父の妻である伯母に、Hさん同様に数十年ぶりでお会いした。すっかり背中が曲がって、小さくなってしまわれていた。私は近く寄って挨拶をした。私が伯父の随筆集「小河内日記」の一話を元に、「T爺さん」と言う台本を書いて、それを何とか形にしたいと考えていると言うと、「本人もきっと喜ぶことでございましょう。」と上品な細い美しい声で言う。私は、久々に美しい日本語を聞き、このような日ではあったが、なんだか矢鱈に嬉しくなった。この伯母は正木不如丘(まさきふじょきゅう18871962)と言う医者でもあり文筆活動もした人物の娘である。不如丘は八ヶ岳山麓の富士見高原療養所の所長を務めていたが、一九二三年に小説「三十年前」「木賊の秋」を発表している。彼の作品は数十年前に一度テレビでドラマ化されたことがあるのだが、長男Hさんが、自分の祖父が原作者だったので見ていた。Hさんは原作の方が面白いと言っていたが、私は当時興味がなかったので見ていない。この不如丘のいた富士見療養所は「高原のサナトリウム」と呼ばれ、結核患者の療養所として有名だったそうだ。一九三三年には横溝正史が、一九三五年には堀辰雄とその許婚矢野綾子が入院している。そして、戦後この高原の療養所で俊夫伯父も勤務し、副所長も務めた。

 

uncle toshio.JPG待合室で、新二伯父や長姉と話しているうちにあっという間に時間が経った。告別式が始まるので移動するようにと言う案内で、私達は場所を移る。

斎場の中心には俊夫伯父の遺影が設置してある。その周りには生花が沢山置かれている。これは普通なのだが、何某一同とか株式会社何某と書いた花輪は三基しかない。伯父は虚飾を嫌う人で、そのようなものは送らないで欲しいと言っていたそうである。そういうところも、日頃伯父を敬愛していた私にとっては好ましい話である。

式が始まる。何度か合掌と拝礼を求められる。それはよかったのだが、お経の一部を法主の後について唱えるように指示された時、短いものではあるが、どのような漢字を書くのか見当も付かない音もあったので、殆ど皆もごもご言うか黙って繰り返した振りをしたりしているようだった。焼香は初七日の分も行ったので、二回である。

喪主の挨拶で長男のHさんが話をした。どのような経過で亡くなったのかを説明してくれた。彼も医者なので、説明は淀みない。「亡くなってからその顔を見たら・・・」ここで彼は言葉を詰まらせ、ややあってから「笑顔でした。二十年も自分を苦しめてきた(間)脚の病気から開放されて。今では上の世界で歩き回って、大好きな俳句を読み始めていることでしょう。」

精進落ちの料理も頂いた。尤も食べるよりは久々に会った従兄弟たちとの会話が楽しく、時間はどんどん過ぎてしまう。私がこの俊夫伯父の作品で、映像作品を作りたいと思っていると言うと、伯父の次男であるNさんが、できた時は連絡して欲しいと言うので、私もすっかりいい気分になってしまう。私のブログのハンドル名を手帳に書いて破って渡す。

帰りはM叔母と一緒になった。従兄弟のTさんが、その娘さんとK伯母の乗る車で、M叔母と私を上諏訪駅まで送ってくれると言うのである。外では小雨が降り出していたので、これは実に有難かった。両親と兄夫婦と長姉はタクシーで上諏訪駅まで。

1744上諏訪駅発の特急に乗る。上諏訪から立川まで、私はM叔母から俊夫伯父についていくつか話を聞く。正木不如丘のことは、母からも聞いていたが、今回叔母から再度聞いて人間関係がよりはっきりした。

ここで私は伯父の短い随筆を一つ紹介しておきたい。今回、この文章を打ちながら、親の心、若者の心理、空間、情景などが的確に描き出されていると思った。場面が目に浮かんでくるのである。

 

『随筆 小河内日記』より

 母ごころ 

 高校生のころの食欲は、すさまじいものがある。夜ごと、十一時ごろになると、長男と次男が我が家の食堂に現れては、食べ物をあさる。このころの年代は、残飯に冷味噌汁をかけてかき込んでも、おいしいものだ。それでよいのだと、僕は思うのであるが、妻は放ってはおけないらしい。

 今夜も、玉うどんと油揚げを、それとなく冷蔵庫に入れていた。

 その時刻が来た。例のごとく食堂のドアが開いて、音をはばかりながらあさっている。鍋の音、ガスの音、しばしの静寂の後「うまい」などとささやき合っているのが、居間まで聞こえてくる。

 そんな気配を背に感じつつ、家計簿をつけている妻である。 

 次男は、明日高校恒例の九〇キロ競歩に参加する。

  妻は、先程から、長い道のりを歩いている間に、ナップザックの細い紐が肩に痛かろうと気を配って、紐に取り付ける肩当をあれこれ工夫している。

 「こんなの、みっともなくて要らないよ」と、言われるに決まっている。そうわかっていて、布を裁ち、ミシンを踏んで、電灯の下であれこれ苦心しているのである。 

 秋に入って、蝶の採集に凝っている小学生の三男を連れて、妻と入笠山に登った。山小屋に荷を置いてやれやれと腰をおろした僕は、目の前に広がるキャンプ場の草原を指さして、さあ捕っておいでと三男を送り出してやった。

 松虫草や吾亦紅の咲き競う花野を、三男が歩いて行く。捕虫網が秋の日に白く揺れて、時々それが草に沈む。

 茶を運んで来た小屋の主人と話しながらふと見ると、少し離れた所に、妻も花野の人となっていた。子の動きにつれて、立ち止まり、歩き、我が子をおのが視野の中に、自由に花野を泳がせているのであった。

―――夏爐 昭和四四年・一一(富士見高原日記)

*写真は、伯父が医学部の学生時代のもの。襟章はMedicineのM。

(なかなか格好いい伯父貴でしょう!)


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吉江俊夫伯父の思い出 その1 [回想]

2010320日土曜日

吉江俊夫伯父の思い出 その1

 今週の水曜日三月十七日、昼は暖かいだろうと油断し、薄いコートも職場に置いたまま外出した。京王井の頭線で西永福へ行った。しかし、背広だけだったのは大変な誤算だった。空気が冷たいだけでなく、風までおまけで吹いていたからであった。なんやかやで結局一時間近く風の吹く外にいた私は、すっかり冷え切ったばかりか花粉も散々吸い込んで、酷い状態になってしまった。

 職場に戻ってからも冷え切った体は温まらない。机に向かっていても足元を隙間風が通り抜けるように感じた。手を差し出してみるが、空気の流れは特に感じられない。その内、関節が痛く、重くなってくる。そして、くしゃみを連発する。

 こんな状態だったので、私はいつもより早めに帰宅の途についた。電車の中でも体全体に感じている不快感は続く。鼻水も出る。読んでいる本も、いつも以上に頭に入ってこない。電車を降りてから家まで何も考えずに、ひたすら歩いた。

 玄関の呼び鈴を鳴らす。妻が扉を開ける。私が中へ入ると、妻がもの静かに言う。「俊夫伯父さんが今朝八時半に亡くなったって。今日お通夜。明日、告別式があるんだけど行けるの?お兄さんたちは明日十時半頃の電車に乗って行くらしいけど。」私は一瞬言葉を失い、コートも背広も着たまま立っていた。頭の中で、伯父さんの思い出が浮かぶ。あの優しい、カッコいい、頭のいい伯父さんが亡くなった。私がその随筆を読んで、益々好きになっていた伯父が亡くなった。去年から自由に歩くことも出来なくなっていて入院していた、と母から聞いていたのではあったが。

 

 何度も鼻が詰まって目が覚め、寝直すということを繰り返して、翌朝私は最悪の状態で起床した。喉は腫れあがり、鼻は詰まり、声は低くなっている。八時半頃、隣の兄の所へ行くと、既に両親と兄夫婦は出発の準備が出来ている。十時半頃に出発するのではなかったのか。告別式の場所も知らない私は焦る。母は脚が悪く速く歩けないので、エレベーターを使うことを前提に、全ての乗換えで多くの時間的余裕を持たせているからだった。兄は自分がプリントした電車の乗り換え案内と葬儀場の名前のある紙を呉れる。

随筆 小河内日記.JPG 結局、私は単独行動することになった。職場に連絡をいれ、急遽有休にしてもらう。いつもと同じ電車に乗った。小田急線と南武線の登戸駅の間を足早に歩く。一分半の間に切符を買い階段を降りると、直ぐに電車が走り込んでくる。立川行きに何とか乗り込む。立川駅では乗り換え時間が六分だったが、こちらも自由席の列に並び、特急あずさ十三号松本行きに乗る。自由席は案外あちこちに空席があったので、直ぐに座る。

 一旦特急に乗り込んでしまうと、気分がすっかり落ち着く。手帳を書きながら、外の景色も眺める余裕ができる。立川、八王子までは時々来るので、心理的には散歩程度である。甲府まで来ると気分は小旅行である。ここで結構な人数が下車した。続いて韮崎、小淵沢。この辺から山の中を通っている感じがして、旅情を感じるようになる。茅野、上諏訪、下諏訪。

 目的地の下諏訪駅で下車すると、遥か向こうの指定席車両から降りて来る五人が見える。両親と兄夫婦と長姉である。私はゆっくりと近付いてゆく。両親たちはエレベーターを使っているが、私は階段を上って反対側のプラットフォームに移動する。プラットフォームを歩いていると、後ろから「おう!」と肩を叩く人がいる。画家の新二伯父さんだった。高齢なのに実に元気である。私か大いに影響を受けている伯父である。

 下諏訪駅から葬礼会場まで徒歩一キロ位と聞いていたので、私は単独行動ならば歩くつもりだった。まだ式の開始まで一時間半以上もあるのだから、散歩を兼ねて歩いたことのない処をうろつくのも悪くはあるまい、と。「何?一キロ?!歩いていくよ。」と言ったのは新二伯父さんだった。私は伯父と話すのも久しぶりだったので、喜んで同行することにした。両親と兄夫婦、長姉はタクシーで行く。

 蕎麦を食べたいと伯父は言うが、駅の周りには居酒屋が二、三軒あるくらいで、他には食事の出来そうな場所はなかった。諦めて会場へ向かう。その途中、伯父から都立新宿高校(旧制府立六中)の卒業生達の話を聞く。伯父が勤務している頃の都立新宿高校は日比谷高校、戸山高校と並ぶ全国に名を轟かせる有名な進学校の一つだった。音楽の話をしていたので、池辺晋一郎と坂本龍一の話になった。「池辺はね、茨城からやってきたんだ。生意気で頭のいい奴だった。でも、いい奴だった。」「坂本龍一は、一杯賞を貰っているね。彼の親父は出版社の編集をやっている人だった。彼もいい人間でね、去年卒業生の集まりがあって俺にも会いてえって呼んでくれたから、行って会った。」

 歩きながら私が「諏訪湖って、随分小さな湖ですね。」と言うと、「もともとの岸辺から百メートル以上埋め立ててしまったのよ。水質は悪くなってアオコが出て臭いしな。」とのこと。

 過疎化していて、通行人はいない。途中、方向が分からなくなり、二度会場までの道順を、路傍で仕事をしている人々に尋ねる。一キロとのことだったが、多少彷徨したこともあって、四十分ほど掛かって到着した。

 

*写真は吉江十志(俊夫)著『随筆 小河内日記』装丁・カット 吉江新二 昭和六十三年八月十六日発行 発行所 株式会社銀河書房 


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不良少年M君の思い出 [回想]

 

 私の高校二年生の時の思い出を書いておきたい。

中学校を卒業すると、私は初めての受験なるものを経験して都立高校へ進んだ。同じ組に同じ中学校出身のM君がいた。中学校時代かれはスポーツのできる不良少年で鳴らしていた。中肉中背であるが、相当に立派な体をしているらしかった。彼より遥かに身長の高かったO君などよりも喧嘩は強かったようである。彼と同じ組になったことで、私は妙な気分になった。不良仲間と花札賭博をやったりしていたM君は、短い髪で親父臭い顔をした少年ではあったが、結構中学校時代は女の子に持てていた。

高校ではあいうえお順で席が決まっていたので、最後列に坐っていた。そして、どの授業でも真面目に受けていた記憶がない。私は勉強をすると言う点では、決して真面目な生徒でもなかったが、授業中は先生の話を聞くものと思っていた。だから、授業中殆ど私語ばかりのM君たちが五月蝿くて迷惑で、嫌だった。しかし、教諭たちも、真剣に叱るのは数学のU先生、担任のUR先生、英語のT先生位だった。

彼がどれくらいの不良少年だったかと言うと、こんなことがあった。高校一年生の時、音楽の時間には音楽室へ移動する。その際、二年生の教室の前を通る。初めての授業のとき、私達は上級生の男子が並んでにやにや何やら見ている前を通って教室に入った。後で同級生から聞いた話であるが、この移動の際に不良っぽい少年達は、同様の上級生の一群に取り囲まれたらしい。その時M君が「Uちんとはダチだぜ。」と言ったので、上級生達はこの集団の通行を許可した。彼らは後で、今度入ってきた一年生は凄い奴がいる、と言っていたそうである。

このUちんと言う上級生は、小柄で猿のような顔をしていた。運動神経抜群でラグビー部に所属していた。このUちんについては、私の小学校からの知り合いで、神奈川の桐蔭学園からスカウトが来た位の速球投手で数学もよくできた長身のKT君が、こんなことを言っていた。

都立高校では狭山湖マラソン(但し、一周ではなく半分位ではなかったろうか)をすることになっていた。KT君はこのマラソンで上位を狙っていたので、先頭集団に位置していた。走るのにそこそこ自信があったKT君であったが、残り一キロ位で「じゃぁ、行くぞ!」と言って猛然とラストスパートしたUちんには全く付いてゆくことが出来なかった。Uちんは優勝、KT君は七位くらいだった。Uちんは乱暴者で相当に強いらしかったが、むやみな暴力を振るったり、言いがかりをつけてくるような人間ではなかった。

SSCN0286.JPG二年生の時だった。倫理社会の先生が課題を出した。自分の考えについてまとめて、提出するようにと言うものだったと思うが。休憩時間中、M君は木製の机の上にタバコを置いて、時々吹かしながら書いていた。白い煙が、少し開かれた窓から流れてゆく。それは作家が執筆しているような雰囲気だった。

倫理社会の授業になると、既に集めた文章を通読していた先生が「とてもロマンチックな文章があるわよ。」と言った。一瞬私は自分の文章かと期待したのだったが違った。「ちょっと読んでみるわね。」内容は忘れたが、流れる時間の中で取り残されたような自分が、過ぎ去るものを振り返っている、と言うような、透明感のある、少年らしい文章だった。その中では彼の外見とはしっくりしない「僕」と言う一人称が使われていた。女子の誰かが「あれ、M君よ!」と囁いた。M君は一言も言わずに、ちょっと頬を赤らめて照れくさそうに後頭部を手で撫でた。

このM君は、単位が不足したため、二年生の途中で転校を余儀なくされた。成績が悪いのは当然である。全く勉強をしないのだから。その彼が去る時に、私に近寄って来てそっと言った。「今まで、騒いでご免ね。これからは静かに勉強できるよ。」私はそれまで彼とは口を利いたこともなかったのである。不良たちは恐かったので係わり合いにならないように、極力避けていた私だったのにである。私が彼のその言葉に何と返答したのかは覚えていない。私は彼がこんなに優しい人間だったことをその時初めて知った。

一昨日、突然彼の思い出が蘇ってきた。彼に対してよそよそしい態度もしなければ親しげに声を掛けた訳でもない私に、彼は「ご免ね」と言ってくれたのである。どうしても彼のことを書いておきたくなったのである。

これだけの話である。 


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北海道の思い出 - 追加 [回想]

 私は自分の生まれ故郷を何とか意識の中に留めておくために、『北海道の思い出』と言う百頁ほどの文章を書いた。最初は主に母から聞いた話を、次に多少本を読んだり、図書館で調べたりしたことを、そして事実関係を確認するために父から話を聞いたことをまとめた。まだ、不足していることは分かってはいるが、自分にとっての完全を期するために準備ばかりしていると、本来の目的を忘れたり、本来の目的を達成する前に記憶が薄れてしまうといけないので、一旦は本と言う形にすることに決めた。
 先ず最初に、父の考え、決断について書いておきたい。

 父は子供の教育、将来を考えて、十六年やってきた農業を止めることにした。理由としては、私の兄が農業嫌いだったことが考えられる。長男だった父は、当然のことながら自分の長男に農業を継がせようと思っていた。しかし、兄は発明家である祖父一郎の所へ遊びに行くと、自分も祖父のような発明家になりたい、と夢を語った。父にとっても、祖父のようになりたいと考える息子の気持ちを優先したくなったのかもしれない。
 十五ヘクタールあった農地、二頭の馬や造ったばかりの堆肥場、ガソリンで動く発動機、脱穀機など、すべて一切合財を売却して、一財産を作った。北海道から内地へ戻ることになった夏或いは秋に、我が家と隣の新家との間にあった落葉松の防風林が、ブルドーザーによって引き抜かれた。その山吹色の重機を見て、違和感を持ったのを覚えている。その力に感動するよりは、懐かしい景色を壊してゆく破壊力に馴染めなかったのではないかと思う。
 世田谷の祖父のところへやってきたのは、一九六〇年の十二月のことだった。出発の前夜は近所のお世話になった斉藤さんのお宅に一家で泊めてもらい、料理をご馳走になったと記憶しているのだが、正しいかどうか。北海道の十勝ではすっかり雪で覆われていたので、私たちは馬橇に乗って駅まで行った。芽室からはディーゼルカーで帯広へ行ったはずである。帯広からは蒸気機関車に引かれた汽車に乗って、函館へ。津軽海峡を青函連絡船で渡る。まる二日を掛けて私たちは上野駅までやってきた。
 上野駅からどうやって世田谷の祖父の家まで来たのかは私は覚えていない。

劇団青麦座について [回想]

 私は、劇団木馬座を退職したあとも、自分は演劇を続けるつもりでいました。少なくとも、三十代になったら、作家として、活動したいと、漠然と考えていました。劇団を去ってから、私は海運ブローカーとして働き始めました。
 木馬座退職後、私はずっと姪っ子や甥っ子のために、人形劇を上演したいと思っていました。そして形になったのが、グリム童話の『ヘンゼルとグレーテル』だったのです。台本、人形の頭、大道具、小道具、衣装、舞台そのもの、照明、音響、必要なものをすべて作りました。勿論、兄弟や将来の妻の協力も不可欠でした。この芝居は、まあまあ好評だったと思います。この芝居の上演をしった未来の妻の従姉妹より、彼女の子供が通っている幼稚園で、この芝居を上演して欲しいとの要望がありました。義兄に協力してもらい、そのバンに舞台の道具一式を詰め込み、ある日曜日か土曜日か、公演に行きました。音の録音状況が悪かったため、初演したクマ木工と言う木造の部屋より遥かに広い空間では、音はよく通らなかったと思います。上演後に、園長先生より、音量について、小さすぎてよく聞こえなかったと言うご指摘がありました。それでも、我が家の敷地外でも上演できたことは、とても良かったと思っています。
 この本厚木の方にあった幼稚園での公演の際、園長先生より、劇団の名前はなんですか、と問われ答えたのが「劇団青麦座」と言う名でした。私は、大学卒業後劇団木馬座に入社した頃、短い詩を書き始めていました。その一つに『生命の泉』と言う作品があります。麦秋と言う言葉がありますが、麦は五月頃、青々と生え、空に向かって成長します。その溢れ出る活力を、私は、生命の泉だと思いました。あの青々した麦のエネルギー、それを劇団の名前にしました。
 そして、海運不況のために一九八六年十二月に語学学校へ転職しました。すぐにやめて独立する予定でしたが、ずるずると働き続け、実際は今現在も働いているという状況であります。一九九七年には、会社も随分陰気な雰囲気に包まれ、まるで閉塞感に満ちた出口のない職場になっていました。退職を何度も考えました。しかし、如何せん、独立できる才覚がありません。つい頼るのは、昔取った杵柄でした。大道具や小道具をやるか、どさ回りの小劇団でも作って、食べるだけを稼ごうか、と。その時に考えていたのか、この劇団青麦座でした。この回想にある写真は、その看板の構想を練っていた時のものです。


株式会社劇団『木馬座』 と 劇団『青麦座』 [回想]

「白雪姫と七人の小人」  随筆

 この写真は私は劇団木馬座を退職する頃、川崎市生田にあった劇団の倉庫のまえで撮影されました。『白雪姫と七人の小人』には熊は登場しませんが、より子供達の興味を強く引き付けられるように、この熊が台本の中に入ることになったと思います。
 当時、劇団『飛行船』と言う団体が、劇団木馬座の競争相手でした。『飛行船』では、『ジャックと豆の木』や『長靴を履いた猫』などで巨人を登場させ、その大きさがかなり衝撃的でした。パンフレットに掲載されている写真を見れば、どうやってそれを製作しているかは一見して分かりましたので、その大きな熊を作るのは仕掛け物を得意としていた私が、作製者として名乗りをあげました。
 2.5メートルから2.8メートルの高さになるこの熊は、上半身を発泡スチロールで形を作り、浅草橋にあった衣料問屋「宮下株式会社」で購入したボアを貼り付けて作りました。高さが異なるのは、この熊を着る人間の身長によるためです。目玉にはゴムボールをいれ、青い色でグラデーションをつけた、そんな記憶があるのですが、ゴムボールはちょっと曖昧です。最初作った時には、『飛行船』の人形のように、中に入る人間の腕を黒い布で包み、熊の手を操作していました。それは棒で操る「ひとみ座」の人形達と同じ方式でした。しかし、裏方からの助言もあり、黒い腕の棒が熊の腕を支えているのはみっともないとのことで、熊というふくよかな動物の特性を活かして、ボアの中に操作部分を吸収してしまいました。ですから、この写真では、中に入っている人間の腕は見えません。
 『白雪姫と七人の小人』の美術は、美校出身のO氏が担当しました。森の情景のドロップの色彩も美しく、その森から、上手の黒い袖幕からこの大熊が登場すると、客席からは子供達のどよめきの声が起こりました。あれは、実に楽しい瞬間です。
 折角作ったこの熊も、トラックに積まれて移動します。そのため、大道具を積んだ後にシートを掛けられ、ロープで縛られることになるものですから、この写真では形が大分崩れています。もう少しハンサムな熊だったと思います。
 劇団木馬座の思いでは、別途、本にまとめようと思ってはおります。
 

2007/10/20
「『ヘンゼルとグレーテル』その2」  随筆

 人形芝居『ヘンゼルとグレーテル』を作ろうと思った最初のきっかけは、実はゲーテの『ヴィルヘルム・マイステルの修行時代』に出てくる人形でした。あの小説を読み始めた時、大学生だった私は、描かれている場面に憧れを抱きました。そして、甥っ子や姪っ子たちのために、いつか人形芝居を上演して見せたいと感じるようになりました。勿論、自分の子供達に対してでもよかったのですが、結果として子供のいない私には、甥っ子、姪っ子が自然と対象になったのです。
 この芝居を作るためには、バックドロップ(背景の書割)や大道具、小道具を作る必要がありましたが、それらすべては劇団木馬座時代に経験しておりましたので、全く抵抗なく製作してゆきました。土日が休日だった海運ブローカー時代に、休みを返上して、作りました。先ず、台本を書き、その後は同時進行で人形の頭を作ったり、衣装を縫ったり、音楽を書いたり、ピアノやエレクトーンで録音したりしました。効果音を録音するのも愉快でした。
 この芝居はアフレコ形式なので、音楽と台詞をいれたテープを作成します。そのために、妻や友人、姉、義兄、その友人たちに声の出演を依頼しました。雨が降る日に、録音したのを記憶しています。義兄が「くま木工」と言う名の木造の家を建てましたが、その大工作業をしている金槌の音が背景に入っているのも、なかなかいい効果音になりました。
 今はもう付き合いのない、九州の劇作家B君が読んだ魔女の台詞は、九州訛りがあって、なかなかいい味が出ていました。彼が読んでくれたお陰で、この録音は私の記憶に残る作品になりました。
 あるクリスチャンが経営していた幼稚園の子供達が、ハレルヤ号と言うボックスカーに乗せられて観客として来てくれました。臨時に作られた木の客席には、鈴なりの子供たち、私の両親、兄弟、その子供達が座って、芝居を観劇してくれました。
 当時、まだ劇団を退職したばかりだったので、芝居を上演することが当たり前の私でしたが、今考えてみれば、この公演は盛況で、大成功でした。後日、B君が宇宙館という下北沢かどこかで上演した芝居などは、客がどれだけ入るか、やきもきして入り口で立って様子を見ていました。公共の施設を借りたり、大道具や小道具、搬入など普通に製作を考えれば、赤字にもなることもあり、B君にとってはあの公演真剣勝負だったと思います。彼はいい芝居を書いていたのですが、止めてしまって、九州に帰ってしまいました




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