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小説『審判』の為の挿絵 [日記・雑感]

 Kannaさんが、そのお友達の誕生日の贈り物として作成したポップアップアート(飛び出す絵本)がありました。ドールハウスのようで、いかにも女性らしく、遊びも楽しさも伝わってくる明るい作品です。その中に、何故か、蟷螂が2匹いました。それについて私が自分の描いた絵を思い出したとコメントを書いておいたら、どんな蟷螂が見たいという返事が書いてありました。そこでその絵の一部をここに紹介しておこうと考えました。
DSCN3125.JPG その作品とは、こちら(左の絵)です。この絵はもともと詩『審判』と言う作品の挿絵の一枚として描いています。裁判所に於ける一場面です。
 10月に入ってから、この詩『審判』を小説にして、とある出版社公募に応募しようと計画を立てました。自費出版もいいけれど、同時に、第三者の評価も問うた方がいいだろうと。栗の里の愉快な女房殿も、今回はどんどん送っちゃえ、と私に発破を掛け、勇気と力を与えてくれています。涙がでるほど有難いですねぇ、こういうのは。(泣いていませんが。)それで、毎日数ページずつ、この詩を元に小説に仕上げてゆきました。本日めでたく完成したので、明日郵便局から発送する予定です。公開した物は応募不可となっているので、こちらでは紹介できませんが。自分としては、最善を尽くしているので、結果はどうなっても構わないと思っています。勿論、評価されることを希望しないわけはありませんが。
 これからは、あちこちにどんどん応募しよう、原稿を送って評価してもらおうと思います。

 Kannaさんへ:こちらが私の描いた蟷螂です。腹が大きいので、多分雌の蟷螂です。裁かれる私を、傍聴席から見ている場面です。隣にいるのは蠍です。Kannaさんの絵にも、スーパーのような場所にビーバーのような動物がぽつんと立っているのがありましたね。

N氏からの手紙 [N氏の肖像]

 今週は忙しい週だった。来週は予定をその日ごとに決められるので、精神的にはゆとりがある、そう思っている。
 我が家の隣には、時として近所迷惑を構わず行動する老人(父親)が住んでいて、活動をする。今週は少し暑さも和らぎ行動しやすかったせいか、あちこち植木を切り落として回った。隣に住んでいる兄も私も、夜に帰宅した時丸坊主にされた植木と、切り落とされたままの枝を見て呆然。切り落とした枝は腰が痛いから片付けられないとのたまっているそうだ。
 DSCN3123.JPG閑話休題。出版計画第二弾の作品の一つだった『神聖木曜日』は計画を中止した。それはN氏の突然の心境の変化だった。出版社にも詫びのメールを送っておいたが、立腹したのか返信もなかった。それでも私は別の計画に取り掛かっているのだが、そんな時に手紙が届いた。彼の気持ちの一部が綴られていて、更に一旦完成したはずだった原稿の変更を求めるものだった。彼は文章の職人なので、気が済むまで反復し、反芻し、納得できないと我慢が出来ない性分のようだ。私のように拙速でも完成させ、次の作品に移って行くやり方とは全く異なるのである。
 先日受取った手紙の内容について、彼なりにそうせざるを得なかった理由を説明していた。仕方ない、そう思う。私は、あの時彼を自分の記憶の中から排除してしまうべきかどうか考えてみた。何度か考えたが、私の作品を真に理解してくれたという点で、私は今までに彼のような人間にあったことがなかった。権威のあるものには一切評価されたことのない私の作品を、非常に高く評価してくれたのである。彼を除くと横浜国立大学の国文学専攻学生だったSさんが、私の詩を読んで、とても気にいてくれたことがあったが。現在の私が私であるのは、N氏の私に対する評価であったことはまぎれもない事実である。彼の存在が私の創作を支えてくれたのである。N氏は私にとって恩人なのである。恩人は永遠に恩人であり続ける。
 だから、私は、彼のことを少し理想化して『N氏の肖像』として小説として書くことにしていた。既に一部書いたように。これは全くの虚構なので、彼が何か訂正、変更を求めることはしないし、する必要もない。そしてこの小説は私の最も大切な作品の一つになるだろう。たった一人しかいないかもしれない、しかし、その一人が理解してくれることを願って書く、それも一つの方法なのだ。
 『神聖木曜日』については、彼の精神状態が落ち着くのを待ってから、改めて出版を検討することになるかもしれない。
 ※現在は、全くべつの短編小説に取り掛かっているが、残り20ページを来週までに書き上げなければならない、ある計画のために。

キリコ風 その3 [日記・雑感]

 少しもキリコ風ではないかもしれないが、キリコを思いながら描いていたのでキリコ風と名づける。
 新宿駅西口から徒歩3分ほどの場所、西新宿に「ばんやき ぼるが」と言う店がある。旧青梅街道と新青梅街道の間の細い20161002DSCN3117.JPG通りに面している。職場が直ぐ近くだった時、毎日その店の横を通り出勤する。煉瓦の塀があり、一部苔むしていている。交差する角に位置していて、その角が開口部になっている。そこには囲炉裏のようになっていて、夕方店が開くと、モツなどを焼いているのが見える。煙が外に漂うように、設計されているようだ。中に入ったことはないが、雰囲気のある店で、ロシア文学、ボルシェビキ、コサック、ロシア民謡、チェーホフ、ドストエフスキー、カチューシャ・・・などロシアに関する言葉を連想する。肉を食べないので、行ったことがなかったが、店内がどうなっているのか興味津津である。あるブログ記事によると、寺山修司、山田洋次監督、高田純次なども訪れていたそうだ。
 ちなみに、新青梅街道に面して、栃木屋という店が昔は「取ってきて食はせるやまくじら 栃木屋」(逃げる猪の絵と猟銃で狙っているハンターの絵付き)という広告を小田急線の車内出していた。小学校の時この「食はせる」が正しく読めなかったので「たべはせる」とよみ、「たべはせる」とはどういう食べ方なのだろうと疑問に思っていた。30年以上前にこの店の前を歩いていた時、猪が吊り下げられていたのを見てぎょっとしたことがある。今はその店はなく、栃木ビルと言う建物になっている。ビルの入居者を表示する金属板には「栃木屋」と言う文字が、インキをはがされてはいるがしっかりと読み取れる。この証拠がなければ、自分の思い違い、記憶違いで終わっていたかもしれない。
 「キリコ風その3」の左の煉瓦は、ばんやきぼるがの塀も思い出しながら描いた。私は、人のいない波止場や海辺の風景が好きだ。それでも無機的なものだけしかないのは苦手。

根拠のない自信について [随想]

 ファミレスで会話をしている若者の話として語られていたと思うが、「根拠のない自信」は日常、日々目撃していることに気付く。「俺はやるぜ。誰がなんと言おうが。だって、俺には自信があるからな。未来の俺が、くすぶっている今の俺にエールを送ってくれているんだぜ。」こういう若者ではなくとも「うちの商品は絶対にいいんです。」他社の商品と較べたことも、他社の商品の知識もない人間が、そういうトーク練習を研修で受けているために、自信をもって薦めるのもこれに近似している。
20160923DSCN3114.JPG この行動を表現するのに、ダニング=クルーガー効果※という言葉があり、2000年にこの研究でイグノーベル賞を授与されていることを、ウェブ検索していて知った。「能力のない人ほど自分に欠如しているスキルにきづかず、一流のスキルを正しく認識することができない。」
 更にこういう分析をしているウェブページもあったので、そこから納得の出来る部分を引用しておく。url:http://yagi-coach.com/mindset/zisinganai/
 自己肯定感を高める方法として紹介されているのが
1.自分を責める癖に気付く
2.言い訳や責任転嫁を他者にすることを自分に許す
3.自分を褒める
4.他人の評価を気にしない
5.現状の自分でなく「未来の自分」の立場で思考する
6.自分の強みを知る
7.自分が認められるコミュニティを持っておく

 自分の主張する考えが批判されようが、馬耳東風。逆切れしたり、相手を小ばかにしたりする風をみせる。批判されると感情的になり、明後日の答えをしていながら、自分は真摯に答えていると言い張る。自分の提示した考えが事実上破綻していようが矛盾していようが、自分には一貫性があり正しい、それを認識できないのは批判者の方であると自説を強弁し、譲らない。それを自分の信念の強さであり、実力であると盲信する。一般的にこういう裸の王様は自分を応援する応援団を用意している。本当の自信があれば孤軍奮闘できるのだが、裸の王様は本当はやはり自信がないので一匹狼にはなれないからである。
 そして問題なのは、外見だけでは根拠のない自信家なのか、本物の根拠がある人なのかが分からないことである。少し会話をすることで鍍金は直ぐに剥がれるので分かるのであるが、会話をする機会が不十分であったりすると、鍍金がそのまま本物として通用してしまうのである。鍍金がついたままマスメディアで拡散されてしまうと、それは根拠はないにもかかわらず一つの「常識・共通の理解」としてまかり通ってしまうのである。若者が根拠のない自信を持って頑張るのは、本物になる可能性もあるので応援するが、いい大人が根拠のない自信を持っているのは許しがたい。科学的態度を重んじ、客観性を重要視する身としては、このような根拠のない自信は防がなければならないと考えている。

※ウィキペディア:ダニング=クルーガー効果: Dunning–Kruger effect)とは、未熟あるいは能力の低い個人が、自らの容姿や発言・行動などを実際よりも高く評価してしまう認知バイアス。自己の「愚かしさ」を認識することのメタ認知(公正かつ冷静な振り返り)ができないことによって生じる[1]https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%8B%E3%83%B3%E3%82%B0%EF%BC%9D%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%AC%E3%83%BC%E5%8A%B9%E6%9E%9C


キリコ風 その2 [日記・雑感]

20161002DSCN3116.JPG その実、少しもキリコではないのにもかかわらず、何となくキリコ。そんなことをしているうちに、新しさがでてくるのだろうと思っている能天気な人間。何事もまずはまねびから、などと。

 キュビスムで共同制作をしていた時代のピカソとブラックは区別が付かない作品があるが、区別が付かないというのは個性が必要になる芸術家にとっては致命的だ。共同制作とは言うものの、お互い、焦ったのではないか。「これー、パブロの作品でしょう?」とか「これは、ジョルジュさんのですよね?」などと言われた時の空しさ。ピカソが「いや、これはもともと俺が最初に考えて描いた画法だ!」と怒鳴ってみても、共同制作で作家の区別できなくなってしまったら。
 芸術に公式は禁物だろう。公式と言うものはあくまで技術を身につけるための手段ではないのか。オリジナル作品に公式を使った段階で、オリジナリティーが損なわれるのではないか、部分的に、あるいは全面的に、オリジナリティーが失われるのではないか。(一部公式を使えば、オマージュになるかもしれないが。)皆で作るもの、誰でもができるもの、作りうるものは芸術作品ではない、とは必ずしも言えないが、新しい一流派を形成することはないだろう。公式が弟子に伝授された時に、弟子は別の要素を追加しない限りオリジナルではなく、亜流になってしまうだろう。
 群馬県板倉東洋大前と言う駅に何度か行ったことがあるが、駅前の空間にトタン板を貼り付けたパネルがずらりと並んだ塀があった。そこには 一見するとホアン・ミロ風の絵が描かれていた。ミロの絵を写したものかと思いきや、そうではなく、あくまでもミロ風。塀をキャンバスに見立てた場合そこに生まれる、丸や四角や三角などの形や動物が何も描かれていない空間がある。ただの空間になっていて、そこにはミロが楽しみながら(苦しみながら?)描いて作った遊びや緊張がない。水墨画にあるような、必要にして十分な余白、空白、空間ではない。あくまでもミロ風、模倣なのだ。こういう手法は、その基本的な考え方が量販店、フランチャイズ店舗にも共通しているのかもしれない。そこそこの品質を提供する、が、本物に近いが、本物ではない。最近では、本物の専門店がどれだけあるのやら。料理でも衣料でも、最も良いとされているものをその道の専門家達が分析して、再構成して公式を作り出し、誰でもが同じことをすることができるように指南書を書く、販売する、研修する、商品化する、こういう流れが出来上がっている。それまでより多くの消費者が期待でき、販路を拡大でき、そうすると儲かるからである。量産化によって、その物自体の存在は広がり、裾野は広がるのだが、そのものに対する認識、理解、把握など根本的なものは薄められてしまう危険もあるのかもしれない。薄っぺらな民主主義、平和、教育、文化等々の言葉が氾濫することにもなりかねない。 

 


キリコ風 その1 [絵画]

 この絵を描いていたのは9月20日頃。遠近を強調し、その中に日常見ることの無い情景を描いて風景に仕上げる、それが今回の描き方である。通勤途中の電車で、一連の奇妙な生き物の絵を三枚ほど描き、帰宅後スケッチブックにもう一度描く。そのよ20160920DSCN3113.JPGうな作業を何回もしていた。何のために、何を描きたくて、そのような目的は何もない。ただ、手が動くままにしておく。塗りたいように、色を塗る。その作業が数日連続した。最初は孤独や疎外、或いは虚無感、空しさ、無力感などを描こうと思っていたのだったが。静寂、無音の恐怖、見えない何かに対する漠然とした怒りなど、日々の感じたことも同時に反映されているのだろうと思う。
 それでも半ばは、意識していたのだった。キリコのような絵、シュルレアリズム風の絵、キュビスムのような絵に惹かれて、描いて見たいと思ってはいたのだった。しかしながら、決して、模倣ではないものを。自分が何に惹かれているのかを考えながら、また考えずに。
 出版計画については、大幅に計画の変更をすることになるが、ぴたりと止まってしまっている。一旦計画を中断し、他の作品の選び直しをしている旨を連絡したが、出版社からは忙しいのか、なしのつぶてである。腹を立てたのかもしれない。一度送付した物を中止したのはこれが二度目だからである。
 計画を中断してからだろうか、風邪を引いてしまって、体も頭も思うように動かない。それが悪循環になり、出版以外のことも、あれこれ決めていたことがどれもやり掛けになり、進んでいない。
 
 ロボット猫が、歩く、歩く。女性は、歩いている男の背中に声を掛ける。彼方にはパラシュートで降下してくる者がいる。時間は昼下がりだろうか。場所は、街の真中、こんなに単純な風景は見たらない。しかし、私の頭には丸の内の一角が目に浮かんでいるのだ。既に再開発で大きく変わってしまった風景が。人々が目的を持って忙しげに歩き回り、自動車も頻繁に脇を通過してゆくのに、私にとってはそれらは存在しないに等しい。余りに自分に無関係だからだ。無関係であると、さながら砂漠にいるような、関係のあるものが真空に吸い取られてなくなってしまうような孤独を感じるのかもしれない。森の中を歩いている時とは正反対の感情かもしれない。
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