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出版計画 変更 [日記・雑感]

 残念ながら、出版計画は当初の予定を大幅に変更することになった。N氏は完璧を期する人間である。だから、今回の作品は彼は自分について書かれた部分は自分の気の済むように変更したい、しかし私にそのような変更を求めるほどの「神経はない」ので、彼について書いた文章は私の他の作品に入れ替えて欲しい、と書いて寄こしたのだった。その手紙が今日届いた。私は何度も電話を掛けるが、彼はいっかな出ようとしない。多分いるのだろうと思う。1998年の時と同じである。
 20160525DSCN3112.JPG実は、このようになるかもしれないという予兆はあったのだった。5月下旬に、私の元に、彼から手紙が送られてきた。書かれていることは非常にまともで、私は自分の過去の言動に恥じ入るばかりであった。正直にそれを詫びる手紙を書いて、彼から許してもらったと思っていたのだが。
 結局、私は彼に依存していたのだった。しかし、もう依存できない。自分自身で信じることを最後まで貫くばかりだ。それ以外に道は、方法は残っていない。
 今日の絵は、5月25日頃彼と電話で話し、妙な違和感を感じて描いた。その後彼からの手紙が届いた。感じたのは埋めることの出来ない溝であった。幾ら手を振っても答えない。勢いをつけて跳べば跳び越して向こう側へゆくことが出来るのかもしれないが、それをする勇気(勇気なのか、情熱なのか、嗜好なのか)もない。そして、彼からの手紙の衝撃が大きく、この絵は5月頃に公表しそうになった。しかし、そうしないで、なんとかこの溝を埋めようと努めた。彼には、しっかりと詫びて、どれだけ私が彼を必要としているかを訴えた。それによって、関係は修復できたはずだった。そして、この溝に橋を架けて完成とするつもりでいたが、ずっと放置していた。そうしたら、橋は結局架けることができないままで終わってしまったのだった。
 さあ、私は今日から仕切りなおして、出版の第二弾を練り直すことにしよう。

新二伯父の思い出 その3 [吉江新二の思い出]



伯父吉江新二の思い出 その三  2016/09/11  日曜日

 新二伯父が生まれたのは赤穂であった。医者だった俊夫伯父が自身の思い出を記した『満天星』の中で弟のこともあれこれ書いている。先ずは、新二と言う名の由来。

吉江新二 作品 40F 1957DSCN3109.JPG「僕が生まれたのは、伊那町(市)である。
 それから一年程して、父が母と結婚する前に下宿していた、赤穂の松屋旅館の土地を得て、我が家を建てた。その家に移って間もなく、弟が生まれた。新二とは、新しい家での二男と言う意味である。以来、双生児の様にして育ち、親密な、心の通った、彼との人生が今日まで続いている。「二人で育った我が家」と云うイメージも、この赤穂の家を舞台とした幼時が中心となっている。」


 新二伯父は子供時代どのような少年だったか。


 「活発な新二はちょこちょこ歩き廻って、父とパートを組んでいた三井さんのラケットで、顔を打たれて鼻血を出したことがある。
 彼は元気で人見知りせず、父の仲間の人達にも人気があって、今日の社交性の片鱗が既にあった。」

 子供の頃どのような綽名を頂戴していたか、人にどのように思われていたのかそれを大人になってからの言動と較べてみると興味深い。左の文章を見ると、当時の少年たちがしそうな在り来たりの答えをしている新二伯父に比べ、女々しいと言われそうな答えをしている俊夫伯父の方が現在の私には共感できる。

「坊やは大きくなったら何になるの?」とは、よく大人が子供に問う言葉である。そんな時、彼は、目を輝かせ胸を張って、「陸軍大将」と言う。僕は「花を作る人になるの」なんて下を向いて小さな声で答えていた。

 伯父がナポレオンと言う綽名だったことは母から聞いて知っていたが、どこがナポレオンなのかは分からない。脚が早く、全校で一番だったようなことを聞いた。当時のオリンピック選手の名を頂戴してオーエンスと呼ばれ、リレーの選手だったということも。ジェシー・オーエンスが一九三五年のベルリン大会で優勝しているから十六才で旧制中学の時のことか。


 彼の
(あだ)名は「ナポレオン」で、ナポと呼ばれて走り廻り、僕は「一人ぼっちのキリギリス」だそうで、キリギリスと呼ばれてしょんぼりしていた。今、ナポレオンは画家になり、キリギリスは医者となっている。口の廻らなかった彼が、今は談論を好み、絵の事、政治の事なかなか理屈を並べる。口達者であった僕は、社交性に乏しく、一人俳句を作ったり、薔薇の栽培をしたりしている。人間は、大人になる迄判らないものである。

 次の茸採りの時の思い出なども、新二伯父の芸術家としての一面が現れている。赤瀬川源平が路上観察を行ったが、場所がどこであれ物の形の面白さを見いだすのは芸術家や詩人に共通の特徴だろう。
 茸(きのこ)採りに連れて行かれると、僕は一生懸命に茸を求めて歩くが、彼は茸などに目も呉れない。あっちの木の株、こっちの枝の(こぶ)と覗いて歩いて、面白い木の株などを持ち帰る

 絵については、俊夫伯父には口惜しさがこの『満天星』を書いていた五十台の頃にも残っている。

 後の話になるが、僕も学年で一番絵が上手であったが、彼の絵は全校で抜群であった。

 二人の絵が学校を代表して、学校の県展に出た事がある。それ見よと、少々得意であった僕は、その展覧会を見に来た人が、弟さんの絵の方が上手であったと、母に話しているのを聞いてがっかりした。そして僕は中学に進んでからは、意識して絵をさぼった。

今日紹介する絵は一九五七年の作品。
40F 特別な題名はなくただ『作品』である。


 



 




原稿『神聖木曜日』他のこと [日記・雑感]

 このところ、自費出版の第二弾のために、原稿を推敲している。推敲しているのは私ではなく、N氏である。どういうことかと言うと、私が書いた文章について、事実かどうか彼が一つずつ確認して不正確な部分については訂正を求めてきているのだ。その指示に従って、私は打ち直し、原稿を印刷し彼に送る。しかし、この原稿は二十年以上前に書いたもので、彼も一度は読んでいて承知している作品なのだ。が、いざ、出版となると、彼は事実に拘っている。これは作品を仕上げるための喧嘩なのだ、と彼は予め手紙で書いて来た。私は正直、最初は面倒だと思った。腹も立った。一部には虚構も入っているが、これは私の作品だから訂正を求めないで欲しい、と言って突き放してしまう考えもあったのだ。が、虚構よりも事実の方が、どんなに些細な事実であっても遥かに面白く、説得力がある。他者の考えを私が代弁しても、おのずから限界があり、文章を俯瞰的に眺めるとどこかで矛盾が生じているはずなのだ。一方、書かれている本人がそれを読めば、自分の考えはそうではない、そのような言葉は使わないはずだ、そのような行動はとらない、等々、細部にわたって本人にしか語ることの出来ない事実を補足することができるのだ。今回はその典型的な例になっている。一応の最終稿を、明日には発送しようと思っている。(このインターネットの時代に、彼とは手紙および電話でのやり取りなのである。彼は、PCも持っていない。携帯電話やスマートフォンを持っているかどうか、尋ねたこともないが・・・)大変よい経験になっていることは間違いない。
 ちなみに、彼が二十年位前から書いていた劇団時代の短期アルバイトの思い出を、当初私は引用するつもりだったが、本文に関係しているようでありながら、事実関係を知らない人間が読んだ場合にはよく分からないと言う理由で削除した。十ページほどの引用だった。そのことは彼の気分を害していたのかもしれなかった。しかしながら、自分の知らない人間の、自分には興味の無いような事実の羅列を見せられることは誰も期待しないだろう。従妹に原稿のこの部分を読んでもらったら、よく分からないし、本文には入れないほうがよい、と言う率直な意見をくれた。私も、正直なところ付け足しながら、木に竹を接ぐような印象があったので、そのように彼に言ったあとばっさりと削除したのだった。
sunman 216-09-04 sundayDSCN3111.JPG 今日の絵は、二年前2014年にある程度描き、一昨年、昨年少し手をいれ、気に入らず、結局今回のような絵にしたのが、今年の最初のほうだったろうと思う。今日久々に画帳を開けてみて、この甲虫のような生き物が愉快だったので、公開する事に。題名は『元気な太陽君』。別段異常気象が続くからこのような絵になったわけでは全くないので、この太陽と現実の太陽とは関係がない。久々にB4判の画帳をめくっていたら、この絵が出てきて、その時には面白さを感じなかったのに、今日は愉快な気分になってので、このブログの絵に使うことにしたのだ。まるで正義の味方、ヒーローのようにさえ見えるではないか。
 完成ができない絵は何枚もある。こればかりはその気にならないとできない。
 ところで、先日電車のなかで変な生き物の絵を描いた。煙突のついているような生き物など。


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