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花粉症の後に風邪を引く [日記・雑感]

 今年は久々に少し酷い花粉症に苦しめられた。今まで、花粉症の薬を飲んだことはなかったと思う。耳鼻科に行って治療してもらったり、点鼻薬を差したりしたことはあったが。とうとうカプセルを飲んだ。鼻水は止まったが、鼻づまりはある。そして、その後に少々頭痛があると思っていたら、木曜日に悪寒が始まり、帰宅後しっかりと夕食をとってから風邪薬を飲む。金曜日は、七割ほど回復していたが、それでも帰宅時には少しだるさを感じる。土曜日は、DVDで溝口健二監督『残菊物語』とデイビッド・ヘルフゴット『シャイン』を見る。『残菊物語』では、何よりも日本髪の美しさ惚れ惚れする。鬘ではない日本髪が、まるで浮世絵の美人達のようで、それだけでも十分楽しむことができた。物語はデュマ・フィスの『椿姫』にも似ていて、女中のお徳が椿姫と同じように家柄、身分によってその恋が妨げられる。どさ周りの一座の芝居小屋が、興行主が逃亡することによって女相撲に取って代わられる場面も、戦前の状況が垣間見られて興味深い。女優も、現在のようにいかにも美しいでしょうと言うようにメークや衣裳で作りこまれていないように見え、却ってその奥床しさに美しさが付け加わるように感じる。
 『シャイン』は以前、テレビで見た事があった。ピアニストとして活躍しようとしていた矢先に、精神の異常をきたし、後年改めて復活して脚光を浴びるというのは、突然聴力を失ってしまったフジコ・ヘミングにも共通する。デイビッドの父親は息子を溺愛する暴君のように描かれているが、実際とは異なると家族からは映画について抗議がなされているようである。
 アメリカ映画にジュリアードに通っていたホームレスの黒人チェリスト『路上のソリストThe Soloist』と言う映画があったが、あのチェリストも精神を病んでしまっていた。尤も、チェロのソリストの方は、役者が役作りと練習の不足で、見ていられない。チェロの弦の押さえ方、弓の使い方にまったく現実味が欠けていて、見ていて腹が立ってきた。ビブラートの真似すらしないのだから呆れる。『シャイン』の方では、役者は14歳までピアノを弾いていた上に、縁起の前に練習を再開したそうだし、更に手だけの場面は本人が弾いたということで、しっかりとした演奏の場面になっていた。真摯な態度は何に於いても不可欠である。
20160327DSCN3042.JPG 今日の絵は、本当は未完成であるけれども、何もないのも殺風景であろうと思って、急いで少しだけ手を加える。3月10日に描いて、暫く放置しておいた物を制作途中として公開。
 あれこれ完成させようと計画していたのに、体調が崩れるとあっという間に、その計画が一瞬にして消えてしまったかのように感じるこの空しさ。
 
 今日は、ベランダの鉢の底を覗いてみる。何しろ、腐葉土があちこちにあり、昨年、異常にムカデが発生したからである。早い内に見つけて退治しておこうという作戦である。そして、今日、何と日も照って日中は暖かかったからか、巨大なムカデが一匹這い出して来た。通常は6月下旬から7月以降に出没するのであるが、今年はその時季がもう少し早めになるかもしれない。桑原桑原。

予定が進まない [日記・雑感]

DSCN3041.JPG 昨日今日と異常に寒い。それだけで、充分に不幸な気分になることができる。何もわざわざ不幸な気分になることもないのだが、不幸な気分になると、余りに楽観的過ぎるよりも、物事を冷静に客観的に見ることが出来るかもしれない。
 いつ書き上げるか分からないが『私のナジャあるいは雪娘』と言う作品、少しだけ自伝的。相当に創作が入ることになる。この作品に肉を付けるために、私はある神奈川県の大学のある駅へ行った時に、序でに数十年前の記憶を辿りながら、ほんの数分だけ寄り道をしてみた。そのカレー店は記憶のままだった。あぁ、あそこにナジャとその姉と母親がいたのだった。私にとっては映画の一つの場面のように劇的である。カメラはどちらから、撮りはじめるだろう。誰から、或いはカレー店に上がる階段から、いや駅から学生街のその通りを一旦全体で見せるようにするだろうか。或いはまるで突然涌いて出た秘密の場所のように描いて見せたほうがよいのか。その情景を、私は文章ではどのように描くことになるのだろう。
 こんなことを想像するだけでも結構楽しくなってくる。既に、何があったのかという事実としては一旦書き上げてある『私のナジャ』(この題名ではない)は、今回の散文詩『私のナジャ或いは雪姫』を書くに当っては、参照しないでいようと思っている。事実に限定されることで、物語が小さくなってしまうことを恐れてである。
 今日の絵は、3月3日に眠る前に描いた手抜きの絵。針金などで立体作品にしようと思えば出来そうである。ロボットのようなものを、ただ手が動くままに描いた。『私のナジャ』とは何の関係もない。
 大分先の予定になるかもしれないが、ニ次元平面に描いた作品を、三次元の立体で作りなおしてみる、そんなことも計画している。この計画は、結構気に入っているが、時間が掛かるので後回しになっている。

時々まとめることは大切 [日記・雑感]

 昨日は、ここ3年ほど掛けて書いてきた交響詩3曲の譜面を印刷したり、ウェーブデータでCDを作ったりした。1曲書いては次の曲に移り、別の曲を書いたり、絵を描いたり、と寄り道ばかり。他にも沢山書いたままになっている作品があったり、書いていて途中で20160228DSCN3040.JPG忘れているものもあるという始末。これでは、次の段階に移ることができませぬ。自分が、何度も同じ事を繰り返しているのが段々嫌になってきたばかりか、不安になってもくる。作品が評価されるかどうかは二の次で、兎に角作品を完成させて、まとめて行くことが大切だ。自分が気に入っているのだからいいではないか。(20年以上前に、アメリカ人のJack Morocco氏に、「大切なことは自分が気に入っていること、他者の評価は気にしなくてよい。」と言って貰ったのが嬉しく、迷った時は、思い出すようにしている。)
 今日の絵。無題。無念無想で手を動かすと、このような適当な絵を描いてしまう。別段、何の意味もない絵である。何かのためのスケッチでもなく。ただ、丸や、卵型が好きなのかもしれない。バイオリンを描いたのは、少し上達したという自覚があるから、自然に描きたくなったのかもしれない。このような絵は、寝る前に手を動かして、既にこの大学ノートに5枚描いている。
 何かを会得するためには一万時間が必要である、という事を本で読み大いに納得したが、何の本だったかが思い出せない。自分のピアノの演奏について、このことが好く当てはまり、時時思い出したように辞書を引いたりする、中途半端ながら続けているドイツ語などもこの規則が当てはまると感ずる。毎日3時間練習したとして一年で訳1,000時間。これを10年間続ければ10,000時間になる。5歳から始めていれば、15歳位では、大体の曲が弾けるようになっているのかもしれない。特に楽器の演奏については若い時に基礎をしっかりと専門家から教わるのがよいと思う。私のように、高校生になってから、しかも自宅にピアノがない状態で始めても、なかなか身に付かない。
 最近は、大分自分の思うように弾けるようになってきた気がする。10,000時間に近付いたのか、既に超えているのか。週末には数時間弾いても、平日は一日2,30分しか弾かない時期も長かったので、なかなかこの時間に達しなかった。この数字を知っていれば、もっと早くから時間を掛けていたものを、と悔やまれるが、これが独学の悲しさ、辛いところである。


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