北海道の思い出 その12 [北海道の思い出]
田舎では、運動会はお祭りの一種である。果たして運動会が日曜日に催されたのか、それとも平日に催されたのか記憶が定かではない。種蒔きの終了した六月中旬頃だったのではないかと、兄が言っていた。これは村を挙げてのお祭りだった。晩秋十一月の大きな節目であった学芸会同様に。一寸した食べ物屋や氷菓子屋が屋台を出す。
私が思い出すのは、何と言っても父の食べたアイスキャンデーの本数多さだった。父は運動会が始まって暫くすると、ゆっくりとペダルを漕ぎながら自転車でやってくるのである。そして、家族のいる応援席に顔を出した後、彼の年に一度の楽しみが始まるのである。アイスキャンデーの幟を立てた屋台に行って、家族の分を買ってくる。さっさと食べてしまうと、追加を買いに行く。そして自分の分をうまそうに食べてしまうと、また屋台へ行く。そんなことを繰り返すのである。一本のアイスキャンデーは割り箸に砂糖水を凍りつかせただけの氷菓子だった。それ以外にバニラやらチョコレート味のバーと呼ばれるやや上等なアイスクリームがあった。父が買って食べたのは、専ら理科の実験室でも簡単に作れるような割り箸に付いた氷の棒であった。その数は二、三十本だったと思う。私は五十本食べたと思うと言うと、せいぜい二、三十本だったのだと言う。私は小さく、とても沢山だったとしか記憶していないので、ここは父の言葉を信用するしかない。父は運動会そのものはそっちのけで、アイスキャンデーを只管食べた。そして暑い陽射しの中でも、一人、徐々に冷えてゆくのである。ついには身体中が冷え切ると、「おぉ、寒い!食べたなぁ!」と自分の食べた後の割り箸を自慢そうに見る。それから「もう帰るぞ。」と言って、一人で自転車に乗って家に戻ってしまうのだった。
それで肝心の運動会のほうだが、観戦した競技内容は良く覚えていない始末である。小学校一年生の時に、初めて自分が参加者の一人となった時のことは覚えている。団体競技が苦手で、どうしても真面目にやる気が出ない。それでいて、隊列を組んで秩序正しく行進し、二列が所定の地点で二手に分かれたりするのは鳥肌が立つほど感動した。この妙な感動がどうして私に湧き起こってきたのかは、後程十分に考察してみなければならない。
運動会の時の思い出は、しかしながら、私の場合あまり面白いものではない。その一つ。上美生小学校は、それ自体小さかった(各学年一クラスのみ、それも一クラス二十人もいない)にも拘わらず、更に分教場があった。そこから運動会に参加する子供たちが教諭に引率されて来ていた。彼らは私の全く見慣れない少年少女たちであった。彼らは運動会用の真っ白な運動着を着ていた。色の浅黒い天然パーマの入った少年が一人いたように記憶している。少し汗ばんだ額と鹿のような小さな目が印象的だった。
お遊戯。これが私が大の苦手とする種目だった。運動音痴なのである。渡辺先生の指示通り身体を動かすことが出来ない。自分でももどかしく、しかし、先生はもっともどかしく、されど身体は侭ならず。運動神経の発達していた次姉とは雲泥の差であった。彼女はなにしろ、小学校三年生の時に何処ぞの学芸会か何かで、小さい小学校ではあったがその上美生小学校を代表して闘牛士の恰好をして踊ったのであるから。「ぼーくはかわいい闘牛士、どぉんな牛だって負けないぞ!」と言う勇ましい歌詞の付いた音楽を伴奏にして。白いタイツに黒いブルマー、銀紙を貼ったボール紙製の短剣を腰に差して、実に勇ましく踊っていましたね、姉は。そんな姿を見ながら、私は音楽に合わせて踊るという芸当が出来るとは、凄いものだと思っていた。
徒競走について。私の兄弟は二つに分かれる。それなりの成果を出せる者と、そうでない者と。私はそこそこの成果が出ない組に属していた。母方の伯父達は剣道の稽古をしていたり、運動会でもリレーの選手だったことを考えると、どうやらこの鈍足は父方の血も大きく影響しているようだ。父方はどちらかと言えば、瞬発力よりも持久力、筋力を誇っていた。馬で言えば、輓馬か競走馬かの違いだ。いずれにせよ、私は足が遅かった。帰り道が一緒になる高山君と言う少年がいたのだが、彼は足が速かった。半ズボンからすらりとした脚が伸びていた。当時、運動会では一等賞を取ると、ノートやら鉛筆やらが貰えた。彼はそれを幾つも貰っていたが、片や私は、参加賞である最小限の文房具しか貰えなかった。私はあのやり方に疑問を持った。何故、出たくもない徒競走などの競技に参加させておいて、差別をするのか。自分から望んで参加しノートを貰えない結果になっても、それは自分の意志でしたことであるから納得はできるのだ。この高山少年は自分の脚が早いことが分かると、私の帽子を頭から奪い取って、帽子を振りまわしながら走り回って私を苛々させることがしばしばあった。こんなことも、その後私が運動会を嫌いになる理由になったのかもしれない。
玉入れと玉転がし。私は学研の学習で知ったのであるが、運動会には玉入れとか玉転がしがあることを知っていた。しかし、期待に反して、上美生小学校では玉入れはなかった。今考えれば、単に十分な予算がなくて用具がなかったのだろうとは思う。それでも、何か寿司屋に行って、何か好きなものを食べ損なったような感じが残った。後日、世田谷区立明正小学校に転校して来て、こちらの運動会で玉入れを見て、やっと安心できた。籠の中に投げ入れられた玉を、先生が生徒と一緒に「ひとーつ、ふたーつ、みーっつ・・・」と数えるところが脳裏に焼き付いている。玉転がしは、残念ながら明正小学校でも競技になかったと思う。
北海道の思い出 その11 [北海道の思い出]
この驚異的な猛威を振るった洞爺丸台風については、母が何度も話してくれた。しかし、私は実態を十分に知らないまま、伊勢湾台風やキャサリーン台風などと同じ自然災害の一つと言う認識でいた。
この貨客船は、野口雨情作詩・本居長世作曲『あかいくつ』の情景を思い出させ、遠い外国への憧れと、漠然とした不安を掻き立てる言葉だ。童謡の本の挿絵にあった、小高い丘からの港の風景が、未知の国への旅をいろいろと想像させたものだった。
昭和二十九年八月に第九回国体が北海道で開催され、往航では青函連絡船の洞爺丸が御召船として使われた。洞爺丸は起工が1946年9月17日、進水が1947年3月26日、11月21日より函館にて就航。三菱重工神戸造船所の建造、総噸数三八九八噸、定員一等44人、二等255人、三等829人、合計1128人の客貨船であった。煙突が四本ついた豪華客船を連想させる作りの船だった。
これからの引用部分は坂本幸四郎著『青函連絡船ものがたり』(朝日文庫)によるものである。
洞爺丸台風 台風五四一五号・マリーと命名される。一九五四年九月二一日(マリーは米軍が台風に付けた名) 特徴 大型で猛烈に速い。進行速度北東五十五ノット。 午後十時三十九分「SOS.こちら洞爺丸。函館港外、青灯より二百六十七度八ケーブルの地点に座礁せり」 やはりSOSが出た。内容は、十時二十八分の鉄道電報と同文である。ただ、SOSなので、国際遭難周波数五百キロヘルツで発信している。この直後、洞爺丸は、今度は国鉄函館桟橋海岸局に、専用周波数四百七十八キロヘルツに切り換え、通報した。・・海保「洞爺丸、こちら函館海上保安。貴船のSOS受信了解。詳細なる状況知らせ」pp170-171午後十時四十五分。保安CQ、CQ、CQこちら函館海上保安。SOS、SOS、SOS連絡船洞爺丸報。二二三九JST(日本時間)、函館港外、青灯より二百六十七度八ケーブルの地点 座礁。付近の船舶注意あれ」 p172函館市内では昼頃から断続的に停電が発生し、桟橋の停電もその一つだった。この時停電がなく、洞爺丸が出航していたら、波に揉まれはしたであろうが、無事に青森についた。 洞爺丸の運命を決めた、二分間(の停電)だった。 p187 *補注「八ケーブルは一五〇〇メートルの距離。CQはcall to quarters応答依頼の信号 ・・後日の解析で明らかになったことだが、午後五時頃、函館付近に現れた台風の目と思われた青空は、実は台風の目ではなかった。台風は午後六時、洞爺丸が出航スタンバイをかけた時刻に、渡島半島江差の西方百キロあたりの日本海にいた。しかも、百十キロあった速度は、午後三時半頃から急激に落とし、四十キロほどで進みつつあったのである。津軽海峡と函館湾は、台風の右側、つまり最も恐れた危険半円に入ったのだった。・・・午後九時には九六五ミリバールにまでなっていたのである。 pp205-206一等船室では乗客も職員も全員死亡してしまい、様子が全くわからない。二等船室では、宣教師ドナルド・B・オース師(三十二歳)が助かって記録がある。(『キリストの証人たち』四竈揚、関田寛雄編)師は、一年前から北海道帯広で布教していたが、長野県沓掛(軽井沢)で開かれる協力伝道協議会に出席するため、乗船した。 二等入り口広間には、どこから入って来るのか、早くから波が入って来て、走水していた。救命具を着けるよう指示があった時、女、子供が泣き出し、同僚の宣教師と一緒に、この人たちに救命具を着けてあげる。船が揺れるにつれて、波は飛沫を上げ、天井まで届いた。全部のドアにボーイが二人ずつ立っていて、ドアを開けさせてくれなかった。「なぜ通さない。人殺し」という怒声が起こる。船が横倒しになった時、売店が倒れてきた。急に壁が壊れて下部遊歩甲板の通路の波がどっと浸入してきた。師は波に飛ばされ、角窓に押し付けられ、泳げないのでそのままの姿勢で頑張った。二、三人の人が窓を開けた。窓から海水が激しく出入りし、ついに海中へ放り出された。 pp207-208 米軍関係以外の外人旅客は五名だったが、生存したのはオース師一名である。 乗客一一六七名のうち、生存したのは一一六名である。 p217ここで登場する宣教師オース師は、上美生の我が家に牧師さんとこの年に一度やってきたことがあった。彼は副牧師としての立場であった。カナダ出身のオースさんの実家は五百ヘクタールの農場を経営していたので、日本の農業経営に興味があったのかもしれない、とは父の話。母の思い出では、背が高く一八〇センチ以上あり、入り口では首を傾けて入って来た。どのようなものでもてなしてよいか分からず、とりあえずドーナッツを作って出した。他に母が覚えていることは、彼が自宅では脱脂乳を飲んでいると言ったことと、賛美歌を一緒になって歌ったが、あまり上手ではなかったことである。姉にオースさんの思い出を訊くと、金髪だったこと、日本語が片言だったこと、そして頭を撫でてもらったことなどが分かった。
洞爺丸台風の翌日朝、母は何の用があったか、上美生へ行った。町では小学校校長が落ち着かない様子だった。教諭の一人の妻が、赤ん坊を連れて埼玉の実家に帰る際に、洞爺丸に乗船したからだ。結局、この母子は遭難し亡くなった。
ところで、母は家で、蚊の鳴くような音でしか聞こえない有線放送でニュースを聞いた。耳に入ってきたのは「大津さん」と言う人物が、生存者にいると言う知らせだった。そしてこの大津さんこそが、オースさんだったのである。
洞爺丸台風は郵便も運んでいたが、遭難によって届けられなかった郵便物が送り主に返送されて来た。母が内地に送った手紙も帰ってきた。一緒に、一枚の葉書が間違って届いたが、その文面が大変に親孝行の子供のものだったので、感動したそうである。
一九五四年 三月 ビキニ米水爆実験で第五福竜丸被災 六月 周恩来、ネルー会談、平和五原則声明防衛二法案成立、自衛隊発足
一九五五年 八月 原水爆禁止世界大会を広島に開く一九五六年 七月二十八日 三男誕生(三男だったが五番目に生まれたので、誰からも親しまれるように可愛い名前を選んだ)
※写真は、カナダ人牧師のオースさんが撮影。落葉松の防風林を背景に、ジープの前に立つシャツ姿の父、長姉、兄、次姉を抱く母、左の二人はGさんとT牧師。1953年9月の写真。
隠し絵 [絵画]
隠し絵 [絵画]
大きな絵(B2判)の作品は、結構時間が掛かっている。細部を少しずつ仕上げているのだがなかなかこの方向でよい、と言う確信が得られないのである。2つの作品を同時に並行して描いているのだが、更に気分転換にもう一つ描き始めるためにB3判の画用紙二枚をB2判に貼り付けておく。
やりたいことが沢山あるので、何から片付けてゆくべきか、ああ、それが問題じゃ。尼寺へゆきゃれ!
少し大きな絵を制作中 [日記・雑感]
今日はいつもに比べて少し大きな絵を描き始めている。既に大体描き上げた作品を、四倍の大きさで、つまりB2判に描き直している。大きな画面にすると細部も丁寧に描くことができるのがよい。小さな画面だと、手先が器用でなければ、描写で失敗することもある。今持っている筆よりも更に細いものがなければ細かい線や色の塗り分けはできないだろう。
4月27日の金曜日には休日出勤の振り替えを取り、インターネットで知り合った画家の作品を見に、銀座のキャラリーあづまへ行ってきた。今回の【黒色遊戯団-東京公演-】4/24~29で展示されている彼女の作品は2つであり、HPで知っている、いつもの赤を基調とした作品ではなかった。私はHPでしか知らないが、赤を多用しているそれらの作品がとても好きなので、この画家にはどうしても会っておきたいと思っていたのだった。何故かスペインの女流画家レメディオス・バロを思い浮かべてしまうのである、作風は全く異なるのであるが。画家が在廊する時間帯を選んで行ったことは、非常によい時間を過ごすことになった。
彼女の作品を見本として纏めた小さな冊子を見せてもらったが、そこには私の好きな世界が広がっていた。どれも素晴らしいですね、と言うと、楽しみながら一作ずつ描いているのです、と言う。やはり、楽しみながら描くのが一番だと思う。彼女は作品について解説を求められてもはっきりとは説明しないのだと言う。作者が説明してしまうとそれが絶対的な意図として捉えられてしまうことによって、作品の大きさが小さくなってしまうのがつまらないからだと言う。それには私も賛成で、作者が意図していないところに、感覚、経験、直観が意図して描かせてくれた何かがある可能性が非常に大きく、それを他者が発見することで作品の世界は広がってゆくと思うからである。
絵画の作品やHPに書いているつぶやきから想像していたのとは異なる印象の人だった。
これからも、インターネットで知り合った人々と出会う機会があるかもしれない。若い頃に内向的で非社交的(これは今でも同じ)だった私は、多くの機会から自ら遠ざかっていた。これからは少しでもその機会を増やすようにしてゆきたい。
今日の絵は、詩人の友人とどさ廻りの人形劇団を作ろうと計画した時の絵の一枚。職場の雰囲気がとても悪くなり、自分がいる場所がないように思われた時である。私はプライドが高く、自分には経験も能力もあると自負しているのであるが、まともな評価を受けていないと強く感じたのが理由である。この頃、自分自身に宛てた手紙風の詩も書いたりした。出口なし、と言う状況で、職場に行っても別段面白いこともなく、劇団を立ち上げる計画を考える方がはるかに楽しかった。
しかし、結果的には劇団を立ち上げることもなくなった。詩人の友人が、鬱状態が悪化し、連絡が取れなくなってしまったからである。往々にしてこんなことになるのである。
本当は、別の絵を公開する予定だったのだが、デジカメのバッテリーが切れてしまったので、断念した。只今充電中であります。
回文 [日記・雑感]
今日も回文。出来るだけ長い回文にしたいと思っているのが、なかなか長いものは難しく、あれこれ言葉をひっくり返していても、面白いものが見つからない。回文作成にも、勿論決まりがあるとは思うが、基本的には犬も歩けば棒に当たる、作戦しか考えられない。
今回紹介するのも、電車の中で俳人宜しく言葉を捏ねくり回していて見つけた作品である。
回文 その2 [日記・雑感]
回文 [日記・雑感]
そして我も作ってみようと思い立ち、電車の中で手帳に書き留めたのが下の作品なり。回文は人をして、シュールレアリスム的感性に陥れる傾向なきにしもあらず。
雷鳴り鳴り鳴り波か?
飲もうよ、お酒、桶、竿、洋物
葦よ、風なきに来、何故か、ヨシア!
をっ!節子、骨折を?!
輪の麒麟、人力の輪(これは挿絵つきであります)
尚、現在詩画集の製作中。出来次第発表予定。
チェロとピアノの為の小曲 [youtube]
このところYoutube作品を作る時間がなかったので、随分間が空いてしまった。
facebookで友達になって頂いている方々に刺激されて、じっとしていられなくなったのが本当のところ。
今日のYoutube作品は、絵については2007年1月に初めてのCDを作った時にそのジャケット用に描いた絵の一枚(チェロを弾く猫)を利用。曲は昨年2011年12月に書いておいたもの。すっかり忘れていて、MP3ファイルを見ていたら見つけたので、早速この二つを一つにする。
今年こそ、『夜長姫の夜想曲』をYoutubeで発表する予定。毎年、あぁ、もう何年同じ事を考えていることか。実行がすべてであります。
東京藝術大学大学院映像研究科アニメーション専攻第三期生修了制作展『空の卵』A Wind Egg [日記・雑感]
3月20日(火)は、夜9時から始まるアニメーション専攻第三期生修了制作展を、渋谷のユーロスペースへ見に行く。このような夜遅くから始まる作品を見に行くのは初めて。
合計14作品が上映されたが、私が一番気に入ったのは『空の卵』であった。
<監督=大川原亮/音楽=羽深由理/サウンドデザイン=滝野ますみ>である。
内容は案内をコピーすると:
小さな養鶏場を営む家族の話。少年は鳥に憧れている。妹はそんな兄を監視している。父は卵を愛している。母は違う誰かを愛していた。家族という切り離せない関係の中で、それぞれが偏りや秘密を持ちながらそこに有り続ける。それは幸せなのだろうか、それとも不幸なのだろうか。
と説明されている。
味のある、とても美しい絵が、動く。まず、私が思い出したのはドストエフスキーの『悪霊』である。なぜか。メガネを掛けた頼りなさそうな兄を意地悪そうな目をして監視している妹、まるで夫を夫と思っていない妻、無気味な父親。父親は『家族ゲーム』に出てくる半熟卵をチューチュー啜る父親(伊丹十三)をも思い出させる。全くばらばらの家族で、彼らが家族であることは分からない位である。登場する四人が絶望的に孤立しており、互いの存在が恐ろしく希薄である。この人間の存在、人間同士の冷たい、冷え切った関係が強く感じられた。このような人間関係を描くことで、彼は家族愛、人間が人間であることとはどういうことであるのか、問いかけを行っているのかもしれない。
この作品を見て思い出したのは Ксенія Симоноваクセーニヤ・シモノーヴァの砂絵である。他にもチェコのアニメーションにも共通点があるようにも思われる。
翌日仕事で疲れるといけないと思い直ぐに帰宅してしまったので、アンケートも書かず、カタログももらえないままになってしまったのが残念である。
その二日後には「フランスのアヌシー国際アニメーション映画祭にノミネート」。私はこの作品はフランス、イタリア、ドイツ、ロシアなどで評価されそうな気がしていたので、さもありなんと思う。そして、何らかの賞を受賞するのではないかという予感がする。
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